Arms:Azure a Fess Or in chief a Crescent Argent between two Mullets of the second and in base a Mascle of the third Crest:On a Cap of Maintenance Gules tuned up Ermine a Crescent Argent Supporters:Dexter: a Lion Gules gorged with a Tressure flory counterflory Or; Sinister: an Heraldic Tiger Ermine gorged with a like Tressure Gules
ブラックウッド家の人間で最初に称号を得たのは、1763年7月1日の勅許状でアイルランド称号(ダウン県におけるバリーリーディの)準男爵(Baronet, "of Ballyleidy in the County of Down")を与えられたロバート・ブラックウッド(1694–1774)である[2][3]。
彼の息子で2代準男爵位を継承したジョン(英語版)(-1799)は、ドーカス・スティーブンソン(英語版)と結婚した。彼女は夫の死後の1800年7月31日に勅許状でアイルランド貴族ダウン県におけるバリーリーディ=キリーレイのダファリン=クランボイ女男爵(Baroness Dufferin and Claneboye, of Ballyleidy and Killyleagh in the County of Down)に叙せられた[2][4]。
その息子で5代男爵位を継承したフレデリック(1826–1902)は歴代当主の中で最も著名な人物である。彼は1884年から1888年にかけてインド総督を務め、第三次英緬戦争を起こし、上ビルマを統治していたコンバウン朝を打倒して同地を英領インド帝国に併合した(下ビルマは第二次英緬戦争で既に併合していた)[8]。爵位の面でも出世し、1850年1月22日に連合王国貴族ダウン県におけるクランデボイのクランデボイ男爵(Baron Clandeboye, of Clandeboye in the County of Down)、1871年11月13日に連合王国貴族ダウン県におけるダファリン伯爵(Earl of Dufferin, in the County of Down)とダウン県におけるクランデボイのクランデボイ子爵(Viscount Clandeboye, of Clandeboye in the County of Down)、そしてインド総督退任後の1888年11月17日に連合王国貴族ダウン県=ビルマにおけるダファリン=エヴァ侯爵(Marquess of Dufferin and Ava, in the County of Down and Burma aforesaid)とビルマ保護領におけるエヴァ伯爵(Earl of Ava, in the Province of Burma)に叙せられた[9][10]。また彼は家名を二度変更しており、1862年に妻の家名を加えて「ハミルトン=ブラックウッド」、1872年に父方の祖母の家名も加えて「ハミルトン=テンプル=ブラックウッド」に改姓している[9][10]。
一方1800年創設のアイルランド貴族爵位ダファリン=クランボイ男爵位と1763年創設のアイルランド称号バリーリーディの準男爵位は、初代女男爵に遡っての分流である7代(海軍の)準男爵フランシス・ブラックウッド(英語版)(1916–1991)によって継承された(10代ダファリン=クランボイ男爵、11代バリーリーディ準男爵)[15]。この分流は初代女男爵の7男として生まれ、海軍軍人として活躍した功績で1814年に(海軍の)準男爵(Baronet, "of the Navy")に叙せられたヘンリー・ブラックウッド(英語版)(1770–1832)を祖とする家である[2]。