チャールズ・ディロン=リー (第12代ディロン子爵)![]() 第12代ディロン子爵チャールズ・ディロン=リー(英語: Charles Dillon-Lee, 12th Viscount Dillon KP PC (Ire)、1745年11月6日 – 1813年11月9日)、アイルランド王国出身の貴族、政治家。 生涯第11代ディロン子爵ヘンリー・ディロンとシャーロット・リー(Charlotte Lee、1794年6月19日没、第2代リッチフィールド伯爵ジョージ・リーの娘)の息子として、1745年11月6日にロンドンで生まれた[1]。1767年5月28日に王立協会フェローに選出され[2]、同年12月4日に国教会に改宗した[1]。 1770年2月に行われたウェストベリー選挙区の補欠選挙でグレートブリテン庶民院議員に当選、議会ではブラス・クロスビーの庶民院議事録出版問題(1771年3月)と王室結婚法案(1772年3月)をめぐり与党側で投票、グレンヴィル法の恒久法化(1774年2月)をめぐり野党側で投票した[3]。1774年イギリス総選挙に出馬せず、議員を退任した[3]。同1774年11月22日、アイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[1]。 1776年11月に母がリッチフィールド伯爵家の相続人になると、ディロンは母の旧姓である「リー」を自身の姓に加え、後年に子爵位を継承して議会召集令状を受けたときも「チャールズ・ディロン=リー閣下」として令状を受け取った[1](つまり、姓の変更を正式に承認された)。 1787年にメイヨー県長官を務め、同年9月15日に父が死去するとディロン子爵位を継承した[1]。翌年から1813年までメイヨー県総督を務めた[1]。 1798年3月19日、聖パトリック勲章を授与された[1]。アイルランド王国とグレートブリテン王国の合同をめぐり、それを支持したとされる[1]。 1813年11月9日にロスコモン県ロックグリンで死去、息子ヘンリー・オーガスタスが爵位を継承した[1]。 家族1776年8月19日、ブリュッセルでヘンリエッタ・マリア・フィップス(Henrietta Maria Phipps、1757年3月26日 – 1782年8月1日、初代マルグレイヴ男爵コンスタンティン・フィップスの娘)と結婚[1]、1男1女をもうけた[4]。
1787年、オーストリア領ネーデルラントでマリー・ロジェ(Marie Rogier、1759年頃 – 1833年8月28日)と再婚[1]、1男2女をもうけた[4]。
出典
外部リンク
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