チャールズ・ブラウン
チャールズ・ブラウン(Charles Brown, 1922年9月13日 - 1999年1月21日)は、アメリカ合衆国のブルース・ピアニスト、シンガー。甘く滑らかで洗練されたバラードが特徴的で、そのスタイルはフロイド・ディクソン、セシル・ギャント、アイヴォリー・ジョー・ハンター、パーシー・メイフィールド、ジョニー・エイス、レイ・チャールズなど多くの後続ミュージシャンに影響を与えた[1]。"Please Come Home for Christmas"(イーグルス、ボン・ジョヴィらがカバー)、"Merry Christmas Baby"などのクリスマス・ソングが特によく知られている。 来歴テキサス州テキサスシティに生まれる。クラシック・ピアノを学び、大学へ進学し化学を専攻。卒業後は一時期は教師を務めていたが、ミュージシャンをこころざし、1943年にロサンゼルスに移住する[2]。1945年、当時人気を博していたナット・キング・コールに対抗する形で結成されたジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズにシンガー、ピアニストとして加入。翌年"Driftin' Blues"がR&Bチャート2位のヒットとなる。48年には、チャールズの"Merry Christmas Baby"が同8位を記録するなど、多くのヒットを生んだ[3]。 しかしチャールズは、自分がフロントマンであるにもかかわらずバンドの実権をジョニー・ムーアが握っていることに嫌気が差し、1949年にバンドを脱退。ソロ・アーティストとしてアラディン・レコードと契約した。アラディンからのファースト・シングルの曲のタイトルは皮肉にもムーアへの当てつけのような"Get Yourself Another Fool"(訳: 誰か別の愚か者を見つけろ)であった。 アラディンでは1956年までレコーディングを続け、R&Bチャートのトップ10に10曲をランクインさせる成功を収めた[3]。この時代の一番知られている曲は恐らく"Black Night" (1951年; R&Bチャート1位)であろう。 1956年、アトランティックのためにニューオーリンズで行ったレコーディングは彼の個性とバンドがマッチせず、不本意な結果に終わる。続いてチャールズは1959年、ミシシッピ州ジャクソンのレーベル、エイスと契約するものの、約1年間の在籍期間中、リリースされたのはシングル2枚のみ[4]。アラディンの成功を再現することはできずレーベルを去った。1960年にキング・レーベルから"Please Come Home for Christmas"がヒットとなるが、その後はヒットに恵まれることはなかった。メインストリーム、オフビート、モダン/ケントなどのレーベルから散発的に作品をリリースし続けたものの、チャールズの存在感は薄れていった。 事実上引退同然だった80年代半ば、チャールズに転機が訪れた。1986年、カムバック作となるアルバムOne More for the Roadをブルーサイド・レーベルからリリース(のちにアリゲーターより再発)。これが好評を博し、クラブ出演などライヴ活動も復活させていった。そしてボニー・レイットがチャールズを彼女のツアーの前座に起用、彼の音楽は再び幅広い聴衆の耳に届くこととなった。 1990年、ドクター・ジョン、ルース・ブラウンらがゲスト参加したアルバムAll My Lifeをブルズアイ・ブルースよりリリース。このアルバムのギタリスト、ダニー・キャロンは以後チャールズのバンドでツアー、レコーディングともに活躍し、カムバック後のチャールズのサウンドを支える大黒柱となった。 1992年には、レーベルからのセカンドとなるSomeone To Loveをリリース。同作にはボニー・レイットが2曲に参加している。一方、ボニーの1995年のライブ・アルバムRoad Testedには、チャールズが参加している。 続く1994年のJust A Lucky So and Soはニューオーリンズのウルトラソニック・スタジオにレコーディングの場を移した。バンドは通常通りダニー・キャロンらレギュラーのメンツだが、地元のホーン・セクションとストリングスを使い、その指揮とアレンジを務めたのはニューオーリンズの伝説的な指揮者のワーデル・カゼアであった。 ブルズアイ・ブルースからはアルバムを計4枚、1994年にヴァーヴに移籍し更に3枚のリリースを重ねた。いずれもチャールズのサウンドの神髄とも言える円熟したメローなサウンドを展開しており、充実した晩年だったと言えるだろう。 カムバック以降、米国の著名なブルースの賞であるW.C.ハンディー・アワード(現ブルース・ミュージック・アワード)にも度々ノミネートされている。1991年には4部門にノミネートされ、ピアノ/キーボード部門の楽器演奏者賞を受賞した。また、1993年と1995年には男性ヴォカーリスト賞を受賞している[5]。 またチャールズは、1997年、米国立芸術基金(NEA)の選定する人間国宝(National Heritage Fellowship)にも選ばれている[6]。 1998年には、ヴァーヴからの3枚目のアルバムSo Goes Loveをリリース。同年、12月開催のパークタワー・ブルース・フェスティバルのヘッドライナーという形で、待望の初来日公演が組まれたが、チャールズの体調が悪化し、彼の出演はあえなく中止となってしまった。翌1999年1月21日、チャールズはカリフォルニア州オークランドで76歳の生涯を閉じた。 チャールズのラスト・レコーディングとなったのはマリア・マルダーの1999年のアルバムMeet Me Where They Play the Bluesで、チャールズは1曲"Gee Baby, Ain't I Good To You"でマリアとデュエットを披露している。元々このアルバムは全編マリアとチャールズの共演作になる予定だったが、チャールズの体調が悪化したために、マリアがチャールズの病室を訪れて、この1曲のみを吹き込んだのだった[7]。 チャールズが亡くなったあと、1999年にブルズアイ・ブルースは、アルバムIn A Grand Styleをリリースした。これは、チャールズのレーベル在籍時の未発表レコーディングを収録したもので、レコーディング時期は明記されていないが、全編通してチャールズが一人で弾き語りでプレイしたものである。また同年、彼はアーリー・インフルエンス部門でロックの殿堂入りを果たした[8]。 ディスコグラフィー
編集盤
参考文献
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia