この項目では、パラドックスの「テセウスの船」について説明しています。東元俊哉 の漫画およびそれを原作としたテレビドラマについては「テセウスの船 (漫画) 」をご覧ください。
テセウスの船 (テセウスのふね)はパラドックス の一つであり、テセウスのパラドックス とも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツ が全て置き換えられたとき、過去 のそれと現在 のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題 (同一性 の問題)をさす。
パラドックスのバリエーション
ギリシャ神話
プルタルコス は以下のようなギリシャ の伝説 を挙げている。
テセウス が
アテネ の若者と共に(
クレタ島 から)帰還した船には30本の
櫂 があり、アテネの人々はこれを
ファレロンのデメトリウス (英語版 ) [ 注釈 1]
の時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から
哲学 者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。
プルタルコスは全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのか という疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのか という疑問が生じる。
ヘラクレイトスの川
ギリシャの哲学者ヘラクレイトス は同一性に関して独自の視点を持っていた。Arius Didymus は次のような彼の言葉を引用している[ 1] 。
人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている。
プルタルコス もヘラクレイトスの言葉として同じ川に2度入ることはできない という主張を引用している[ 2] 。
また鴨長明 による方丈記 では類似した例えで、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
と述べられており、「川」としての「存在」はそこにありながら、そこに流れている水は時間を経れば「ある瞬間を流れていた水」ではない事を指摘している。
おじいさんの古い斧
「おじいさんの古い斧 (Grandfather's old axe)」とは、本来の部分がほとんど残っていないことを意味する英語での口語表現である。すなわち、「刃の部分は3回交換され、柄は4回交換されているが、同じ古い斧である。」この成句は冗談として、明らかに新しい斧を掲げて「これはジョージ・ワシントン の使った斧 で…」などと使われる。
実例
船・乗り物
現代の船舶 は部品の交換や改造・所有者の変更は可能であるが、建造時に付与されたIMO番号 は廃船となるまで変更されないため、同一性は保たれている。
鉄道車両 では車体(もしくは走行機器類)を更新してしばらく経った後、残された走行機器類(または車体)を更新した事例もある。但し、鉄道車両では更新工事に際して車両形式も変更することが多く、書類上で同一形式が残った例は少ない。同一の車両番号が残された例はJR九州 の国鉄8620形蒸気機関車58654号機 [ 注釈 2] やJR東日本 のEF81 90 号機[ 3] 、近江鉄道 の自社発注車[ 注釈 3] などごく一部に限られる。
航空機 の場合、機体記号 は再登録が可能である。航空業界では製造とサポートの会社が別であることも普通であり、エンジンやアビオニクス などを新型に入れ替えることも多い。また生産したメーカーが廃業後も他社が生産した主翼に交換して延命することもある。航空事故 により胴体が大破した場合は廃棄されるため、胴体部分が同一性を規定するとされる。
その他の製品
工業製品の多くはサポート期間内であれば任意の部品の交換用部品を取り寄せることができ、基本的には全部品を置換できる。また同一ではなく改良された部品に入替えることも可能であり、筐体や土台以外は導入時と異なっている場合もある。
パソコン では部品の入れ替えが可能であるが、バンドルされたソフトウェアは特定のパーツと紐付けされる(OEMライセンス)ことがあり、その部品を交換すると別のパソコンとして扱われることがある。
老舗料理店で「タレやスープを何年も継ぎ足している」ことをウリにしている店の多くは、一定の期間で中の古いタレやスープの全てが入れ替わっているとされる[ 4] 。
建築
日本の伝統的な木造建築では、劣化を考慮して定期的に建て直すことが前提となっていることがある(現存天守 の改修等)。石造りの建築物は基礎と建物はそのままで内装を変えて使い続けることが多い。
伊勢神宮 、出雲大社 などの神社 では、式年遷宮 と呼ばれる本殿の定期的な新築移転を行っているが、新築されても同一の神社として認識されている。
生物
生物 には寿命 があるが、それを全うする前に生殖 によって子孫を残すことによって、それぞれの個体が死んでも種 は存続する。
多細胞生物 においては新陳代謝 によって常に細胞が入れ替わるが、個体そのものの生存は継続される。たとえばヒト の成人では、細胞の平均寿命は10年以下とされている[ 5] 。また生物の脳細胞を同じ働きをするナノマシン に置き換えたらどうなるか、という発想もある(精神転送#脳細胞の逐次的置換 )。
生命工学 の分野では、人工合成した塩基 をつないだ短いゲノム を酵母 のもともとの染色体 の端から置き換えていき、すべての塩基を合成したものにする、といった研究が進行している[ 6] 。
組織・団体
前述のように生物は子孫を残すことで同一性を維持しているが、社会的には国家 をはじめとした組織も構成員が入れ替わりながら存続している。企業 や学校 、スポーツ チーム、楽団 などの組織も時間が経つにつれて所在地や所属先(親会社など)が変わり構成員(社員など)も入れ替わっていくが、社会的には同じ組織として認識される。
解答の試み
アリストテレスの四原因説
アリストテレス の哲学体系では、事象の原因を4つに分け(四原因説 )、これらを分析することでパラドックスに答えることができるとされる。アリストテレスによれば、ある事象が「何であるか」は「形相因」であり、その観点では設計などの本質が変わっていないため、テセウスの船は「同じ」であるとされる。同様にヘラクレイトスの川も「形相因」的には変わっていないが、「質料因」が時と共に変化しているとされる。
また、「目的因」から見ると、テセウスの船は「質料因」としての材質が変わったとしても、テセウスが使った船であるという「目的因」は変わっていないとされる。「動力因」は誰がどのように作ったかを指し、テセウスの船の場合、船を最初に作った職人は同じ道具や技法を使って修理(部品の置換)をしたと考えることができる。
「同じ」の定義
哲学書によくある主張として、ヘラクレイトスの川の場合、「同じ」が2種類の意味で使われているとされる。1つは「質的(qualitatively)」な「同じ」であり、属性が一致していることを意味する。もう1つは「数的(numerically)」な「同じ」である。例えば、同じに見えるボウリングのボールが2個あるとする。それらは質的には同じだが、数的には同じではない。一方を別の色で塗り替えた場合、塗り替える前と比較して数的には同じだが、質的には同じではない。
このような主張では、ヘラクレイトスの川は質的には同じだが、数的には同じではないということになる。テセウスの船も同様である。
このような解答は、質的な同一性をさらに詳細化して考えていったとき、それが数的な同一性より範囲が狭くなるという問題をはらんでいる。例えば、ボウリングのボールの属性をその時空間における位置であるとした場合、異なる位置や時間に存在するボールは(数的には同じであっても)質的には同じであるとは言えなくなる。同様に、川も時と共に属性が変化していると見ることもでき、水面の波の状態などは一度として同じになることはない。質的に同じでないものは数的にも同じでないとされるため、異なる時点の川は数的にも異なるということになる[ 注釈 7] 。
4次元主義
このパラドックスへの1つの解答が4次元主義(en )の概念から生じた。David Lewis らは、全ての事象を4次元 オブジェクトとして考えることでこれらの問題が解決すると提案した。あるオブジェクトは空間的には3次元の広がりを持ち、第4の次元として時間的にも広がりを持つ。4次元オブジェクトは3次元時系列 からなる。すなわち、空間的広がりを持って、ある期間だけ存在する。あるオブジェクトは因果関係のある一連のタイムスライスから構成される。各タイムスライスは数的に同じであり、タイムスライスの集合体としての4次元オブジェクトも数的に同じである。しかし、個々のタイムスライスは質的に異なる。
川の問題で言えば、各時点で川は異なる属性を持つ。したがって、3次元タイムスライスを抜き出してみれば、川はそれぞれのタイムスライスで異なる属性を示す。しかし、それらをまとめたとき、全体として川としての同一性があると言える。したがって、同じタイムスライスの川に入ることはできないが、同じ川に2度入ることは可能である[ 10] 。
ここで特殊相対性理論 を考慮すると、タイムスライスを形成する唯一の「正しい」方法が存在しないことになる。しかし、これはあまり問題ではない。ミンコフスキー空間 では観測者は同じタイムスライスを2度通過することはないため、依然として「同じ川の同じタイムスライスに2度入ることはできない」のである。
属性の形而上学
ロバート・M・パーシグ の Lila: An Inquiry into Morals で示された属性の形而上学(Metaphysics of quality)では、パターンの階層が定義され、それを使ってこのパラドックスの新たな解答が与えられている。すなわち、船は、変化する低位のパターン(部品)の集合体であり、単一の高位のパターン(船全体)は変化しない。
構造主義
言語学者フェルディナン・ド・ソシュール は「テセウスの船」に直接解答した訳ではないが、あくまで言語学の立場から「午後8時45分ジュネーブ発パリ行きの列車」を例に出し、列車や乗客や運行などが違っていても同じ列車であると近代言語学を開いた『一般言語学講義 』で述べている。実体が違っても価値は同じという考え方を採り、これが構造主義 や記号論 を形成する考えの一つになっていく。同じようにチェスにおいても、駒の素材が何であれ、キングなりビショップなりがどういう位置にあるか、どういう構造の中にあるか、によってその価値が決まってくると考える。
フィクションでの事例
この節には独自研究 が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証 し出典を追加 して、記事の改善にご協力ください。議論はノート を参照してください。(2014年2月 )
テリー・プラチェット のディスクワールドシリーズの小説 "The Fifth Elephant" では、テセウスの船のパラドックスが扱われている。持ち手と刃が定期的に交換される斧が登場し、登場人物たちはこの斧が物理的には同じではないが、感情的には同じであると考える。ディスクワールドシリーズにはヘラクレイトスへのオマージュとして Ank-Morpork という街にある River Ankh は唯一の2度渡ることのできる川とされている。
アイザック・アシモフ のロボットシリーズとファウンデーションシリーズ をつなぐ鍵であるR・ダニール・オリヴォー について、1986年 の『ファウンデーションと地球 』では、脳 も含めた全ての部品が何回か交換されており、脳については6回設計が変更され、新たな記憶領域が追加された、という設定で登場する。
Boichi の漫画作品『ORIGIN 』でも、主人公のロボット「オリジン」が2度ほぼ全面的な交換を行った。
ダグラス・アダムズ の『宇宙の果てのレストラン 』では、ロボットのマーヴィンも同様のことを言っているが、左半身のダイオードは元のまま残っている。
田中啓文 の推理小説『揺れる黄色』では、100以上からなるクラリネットのパーツを、何年もかけて1つ1つ交換し、最終的に全部入れ替える、というトリックが用いられている。
フランシス・フォード・コッポラ の『地獄の黙示録 』で後に追加されたシーンでヘラクレイトスの川についての言及がある。
Roxanne : "Do you know why you can never step into the same river twice?" (何故、同じ川に2度入れないか知っているか?)
Willard : "Yeah, 'cause it's always moving." (ああ、常に流れているからだ。)
日本の作品では、手塚治虫 の『火の鳥 復活篇』の主人公レオナは事故でサイボーグ に生まれ変わった際、脳の一部までもを人工物に置き換えたためか(作中には、それが原因だろうという示唆はあるが、明言はされない)有機生命体を見てもそれを生き物であると感じることができなくなるなどし(作中では、彼の目を通した情景として、生物がゴミクズのように描かれる)、自分が何者なのか悩みつづける。後の作品では、士郎正宗の『攻殻機動隊 』において、全身を義体化し、脳を電脳化したサイボーグは人間なのかというテーマは繰り返し語られている。
2013年 に発売されたPCゲームThe Swapperでは、地球から遠くはなれた惑星軌道上で無人と化した宇宙ステーション「テセウス」を舞台としている。自分のクローンを任意の場所に作り出し、さらにそのクローンへと自分の精神を移し替えることが出来る謎の装置を主題としているが、この装置で創りだされるクローンは移動困難な場所へたどり着くための単なる道具としてしか使われず、次々と精製されるクローンは精神を移し替え終えると使い捨てにされ、死んでいく。「自分」を犠牲にしながら物語を進める内に、精神をクローンに移し替えた場合、それはもはや自分と言えるのか、という本パラドックスがプレイヤーに去来することになる。
転送装置 は、遠未来の超科学技術を前提としたSFではよく使われるSFガジェットだが、テセウスの船と同様の議論の対象となり得る。作品のメインテーマとなる場合もあれば、1エピソードとしてそういった話が盛り込まれることもある。
アンパンマン は、頭部を交換することで力を回復するが意識や記憶は新しい頭部に引き継がれる。
『パワプロクンポケット13 』では、雨崎千羽矢に脳の移植手術を受けさせる際に、主人公が桧垣東児から継続性についての説明を受けている。この時桧垣は、「手術が成功したとしても、千羽矢は手術前の千羽矢とは別人である可能性がある」ということを示唆している。
ディズムによる新クトゥルフ神話TRPG シナリオ『カタシロ』では、その結末へと繋がるプレイヤー・キャラクターへの問いかけとしてテセウスの船を取り上げている。
脚注
注釈
^ アリストテレス 門下の哲学者、政治家。カッサンドロス 傘下でアテネを統治した(紀元前317年 -紀元前307年 の期間)。
^ 台枠 ・ボイラー など多くの部分がJR九州 で復活して以降の新製。
^ 近江鉄道では改造車という名目で車籍のみを流用し、他社からの中古車両にそっくり入れ替えたものが多い。従って現在保有する電車は、書類上は明治 ・大正 生まれという「最古の現役車両」というものがある。近江鉄道#特記事項
^ 同時に在籍していなかったメンバーを含んでいるため、過去のどの時期の「モーニング娘。」ともメンバー構成は一致しない。
^ 2014年 以降は当該年の西暦の下二桁を付して「モーニング娘。'14」「モーニング娘。'15」……のように毎年改名することとなり、2014年11月には結成時メンバー卒業時に在籍していた最後のメンバーが卒業して、2回目のメンバー総入れ替えが完了した。
^ 2018年6月25日まで、ゼネラル・エレクトリック 社が算出開始時の銘柄として残っていた。同社は算出開始以降、1898年と1901年の2度構成銘柄から外れたのち[ 8] 、1907年11月7日以降は継続して構成銘柄となっていた[ 9] 。
^ ただし、この論法でいくと、先に挙げた色を塗り替えたボールの例も数的にも同じでないことになる。質的に同じでないということは、必ずしも全属性が異なることを意味しない。数的同一性も属性の1つとみれば、他の属性が違っていても数的には同じと言える。
出典
参考文献
関連項目