テレーゼ・ツー・メクレンブルク
![]() テレーゼ・マティルデ・アマーリエ・ツー・メクレンブルク(Therese Mathilde Amalie Herzogin zu Mecklenburg [-Strelitz], 1773年4月5日 - 1839年2月12日)は、ドイツのメクレンブルク=シュトレーリッツ公爵家の公女で、カール・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシスの妻。プロイセン王妃ルイーゼの次姉である。 生涯メクレンブルク=シュトレーリッツ公(のち大公)カール2世とその最初の妻でヘッセン=ダルムシュタット侯子ゲオルク・ヴィルヘルムの娘であるフリーデリケの間の第4子、三女として生まれた。すぐ上の姉カロリーネが夭折したため、実質的に四人姉妹の次女であった。幼くして実母と死別し、実母の妹であった継母シャルロッテも早世したため、ダルムシュタットに住む母方の祖母ルイーゼに養育された。 1789年5月25日にノイシュトレーリッツにおいて、神聖ローマ帝国の帝国郵便総裁(Generalpostmeister)を世襲で務めるトゥルン・ウント・タクシス侯カール・アンゼルムの跡取り息子カール・アレクサンダーと結婚した。夫妻は1797年まではフランクフルト・アム・マインに居を構えていたが、この頃からすでにテレーゼは夫を凌ぐ政治的手腕を見せていた。1797年に義父が実質的に帝国郵便総裁とレーゲンスブルクでの帝国議会(Reichstag)での役職を引退して夫に役職を譲ると、テレーゼも夫を支えてトゥルン・ウント・タクシス家の資産や郵便事業の経営を支えるようになった。またテレーゼは芸術や文学にも関心を寄せ、そのサロンにはジャン・パウル、フリードリヒ・リュッケルト、ヨハン・カスパー・ラヴァーター、フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックらの文人が出入りしていた。 1839年にディッシンゲンのタクシス城で亡くなり、ザンクト・エメラム修道院(Kloster Sankt Emmeram)宮殿内の墓所に葬られた。 子女夫カール・アレクサンダーとの間に7人の子女をもうけた。
また、バイエルンの外交官マックス・エマヌエル・フォン・ウント・ツー・レルヒェンフェルト伯爵(1772年 - 1809年)との間に私生児を1人もうけた。
参考文献
外部リンク
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