デイル&グレイス
デイル&グレイス(Dale & Grace)は、1960年代に活動したアメリカ合衆国のスワンプ・ポップのヴォーカル・デュオである。1963年リリースのドン&デューイのカバー曲「I’m Leaving It Up To You」(邦題:さよならデート[1])のヒットで知られる。 来歴デイル・ヒューストン(Dale Houston、1940年4月23日 - 2007年9月27日)とグレイス・ブルッサード(Grace Broussard 、1939年2月5日[2] - )は1963年に初めてデュオとしてレコーディングを行ない、1965年まで活動を共にした。デビュー曲「I’m Leaving It Up To You」は1963年にビルボード・ポップ・チャートの1位を記録し[3]、ゴールド・ディスクに認定された[4]。他「Stop And Think It Over」は1964年に同8位、「The Loneliest Night」は同じく1964年に85位を記録している[3]。 デュオ結成以前デイル・ヒューストンは、父クロード、母エッシーの子としてミシシッピ州コヴィントン郡の小さな町、セミナリーに生まれた。出生名は、ロバート・デイル・ヒューストンである[5]。彼は、自宅台所のテーブル上で助産師によって取り上げられた。彼の生後、ヒューストン家はコヴィントン郡の郡庁所在地のコリンズに引っ越し、父クロードはそこでキリスト教の牧師となった[6]。ヒューストンは6年生のときピアノのレッスンを受け始めたものの、家族は貧しかったため3ヶ月後にはそれを止め、以後彼は教会で楽器を弾いて歌い独学で学んだ。 1959年、彼はジェイ・ミラーのロッコ(Rocko)・レコードよりシングル「Won't You Believe Me」/「Big Time Operator」でレコード・デビューする。翌年には同レーベルより2枚目のシングル「Lonely Man」/「(Big Bad) City Police」をリリースし、「Lonely Man」は短期間ながらトップ100に食い込む小ヒットとなっている[7][8]。この年、バトンルージュのレコード・レーベル経営者で音楽プロデューサーのサム・モンテル(サム・モンタルバーノ)がデイルのパフォーマンスを地元のバーで聴いて才能を感じ[4]、彼をモンテル・レコード専属のソングライターとして迎え入れた[7]。 グレイス・ブルッサードは、デイルの1つ年上で、1939年にバトンルージュの近郊南に位置するプレイリーヴィルに生まれている。兄はスワンプ・ポップの知られたシンガー、ヴァン・ブルッサードで、彼女は16歳の頃から兄と歌手活動を行なっていた[7]。1960年、兄とのデュオ、ヴァン&グレイス名義でのシングル「Feel So Good」/「Young Girls」をモンテル・レコードからリリースした[9][2]。 デュオの結成1963年時点で、デイルはミシシッピ州 ナチェズの西側の町、ルイジアナ州フェリデイのバーで活動をしていた。この頃モンテルは、デイルに対し、グレイスと組んで活動することを提案。両者とも彼のレーベル、モンテル・レコード所属であり、数年の活動実績があった[10][11]。 彼らは顔を合わせ、モンテルの自宅のピアノで4時間に渡り練習をした[6]。デイルが「I’m Leaving It Up To You」をプレイし出すと、隣の部屋で寝ていたモンテルは飛び起き「もう一度やってくれ!これはヒットするぞ!」と叫んだという[5]。この曲は間もなくレコーディングされ、モンテルの所有するもう一つのレーベル、ミッシェル・レコードから地元でリリースした。フレッド・ブロンソンの「ビルボード・ブック・オヴ・ナンバー・ワン・ヒッツ」によると、この曲はヒューストンのトップ40ラジオ局KNUZで人気に火が付き、局所属7名のDJの全会一致で彼らの選ぶ「その週のヒット」に選ばれている。モンテルはバイオリンの編曲を変更したいと考えたが、KNUZのDJに変更しないよう説得された。このシングルは、全米においてはプロデューサーのヒューイ・モーによる交渉の末、フィラデルフィアのジェイミー/ガイデン・レコードによってモンテル・レコードの921番として配給となった[11][12]。 ヒットになるとのモンテルの予想は的中し、「I'm Leaving It Up To You」はポップ・チャートの1位となり、2週続けてその位置を保った。デイル&グレイスは、別のルイジアナ州出身のシンガー、ジェイ・シェヴァリエと共にツアーに出ている[13]。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでも1位となった[14]。 デイル&グレイスは1964年8月にディック・クラークのアメリカン・バンドスタンドにも出演した[15]。1963年の秋には、デイル&グレイスはクラークの企画するキャラヴァン・オヴ・スターズのツアーに出ている。これに参加した他のアーティストにはブライアン・ハイランド、ボビー・ヴィーらがいた[12]。 1964年、彼らはデビュー・アルバム『I'm Leaving It Up To You and 11 Other Hit Songs』をリリースした[16]。 解散ビートルズをはじめとするブリティッシュ・インヴェイジョンと共に彼らの勢いは失われ[7]、またグレイスがツアーでホームシックになってしまったこと、デイルが重篤な病気となり入院したことなど、両者の個人的な問題も重なり、デュオは1965年に解散した。その後グレイスは兄ヴァンとの活動に戻っている[17]。グレイスは1967年には、"リトル"・グレイス・リトルの名義でシングル「You’ll Hurt Me (All Over Again)」/「Paper Backs And Blues」(Abbee)をリリースしている[2][18]。 一方、デイルは別のパートナー、コニー・サテンフィールドと組み新たな「デイル&グレイス」として活動を開始。一方、グレイスも兄とのデュオをデイル&グレイスと名乗り、活動した[19]。 両者の関係は険悪になってしまったが、解散から20年後にデイルの妻パトリシアの仲介により、デイル&グレイスは一時的に復活し、暫くの間活動をした[19]。 デイルの死デイルは2007年9月27日、心不全のためミシシッピ州ハッティズバーグのウェズリー・メディカル・センターにて死去した。67歳であった。彼の葬儀では友人のトロイ・ションデルが音楽パフォーマンスを行なった。彼はミシシッピ州コリンズのスマーナ墓地に埋葬された[20]。 受賞2007年4月7日、デイル&グレイスはルイジアナ州フェリデイのデルタ・ミュージック・ミュージアムの殿堂に加えられた。2007年10月27日には、ルイジアナ・ミュージックの殿堂入りをしている。この式典では当初デイル&グレイスが再結成して特別パフォーマンスを行なう予定であったが、その1ヶ月前の9月27日、デイル・ヒューストンは腹痛を訴えて入院し、その日死去した。式典ではグレイス・ブルッサードがトロイ・ションデルとデュエットで「I'm Leaving It Up To You」を披露した[7]。 この他デイル&グレイスは1997年にルイジアナ殿堂に、1998年には湾岸殿堂に迎えられている[19]。 ディスコグラフィーアルバム
シングル
脚注
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