トマス・アースキン (第6代ケリー伯爵)
第6代ケリー伯爵トマス・アレグザンダー・アースキン(Thomas Alexander Erskine, 6th Earl of Kellie, 1732年9月1日 – 1781年10月9日)は、イギリスの音楽家、作曲家。1756年までフェントン子爵の儀礼称号を使用した[1]。彼の特筆に値する才能は国際的名声を、派手な習癖は悪名をもたらしたが、現代では無名である。20世紀末になって、現存していた彼の曲の録音がなされ、18世紀イギリスの重要な作曲家の1人、とくに初期スコットランド音楽の代表的人物として、再評価されつつある。 生涯第5代ケリー伯爵アレグザンダー・アースキンと2人目の妻ジャネット(1775年6月7日没、医者で詩人のアーチボルド・ピトケアンの娘)の息子として、1732年9月1日に生まれた[1]。父は1745年ジャコバイト蜂起を支持したジャコバイトであり、1746年7月から1749年10月までエディンバラ城に投獄された人物である[1]。1756年4月3日に父が死去すると、ケリー伯爵位を継承した[1]。 エディンバラのロイヤル・ハイスクールに通っていたトマス・アースキンは、1752年、ヨハン・シュターミッツの下で音楽を学ぶため、ドイツのマンハイムに留学した。1756年にスコットランドに帰国。ヴィルトゥオーソ・ヴァイオリニスト兼作曲家として、「fiddler Tam」というニックネームがついた。彼は当時流行の最先端だったマンハイム楽派を普及させ、その第一人者としてイギリス中に広く知られるようになった。1761年、3楽章からなる序曲(交響曲)集(全6曲)をエディンバラで出版。ジェイムズ・ボズウェルは1762年10月20日、アースキンから5ギニー借り、1763年5月26日、彼をロンドンのエグリントン卿のところに連れて行った。ロンドン滞在中、アースキンが流行歌をつぎはぎして作った曲「The Maid of the Mill」は大変な人気を博した(1765年、コヴェント・ガーデンにて初演)。1767年、スコットランドに戻り、エディンバラ音楽協会の代表を務めた。有能なヴァイオリニストとしても、エディンバラのNiddry's Wyndにある聖セシリアホールでコンサートを催した。 熱心なフリーメイソンであり、1760年にイングランド・古代派グランドロッジのグランドマスターに選任され、6年間務めた。1763年から1765年まではスコットランド・グランドロッジのグランドマスターも兼任した。 アースキンの自堕落なライフ・スタイルは、会員が全員男性の飲酒クラブを設立するに及んだ。伝えられるところでは、遊び友達のサミュエル・フットはアースキンに、「君のキュウリを熟成させるため、君の赤鼻を君の温室に入れたまえ!」とアドバイスしたそうだ。彼には、あっという間に曲を書くが、推敲をまったくせずに人に渡す傾向があったのだった。彼は健康を損い、オーストリア領ネーデルラントのスパに行った。すぐに帰国するはずが麻痺を起こし、ブリュッセルで2、3日の足止めを食った後、「悪臭を伴う熱」に襲われ、51歳で死去した。 1970年代まで、アースキンの作品で残っている曲はわずかしかないと思われていたが、1989年にKilravock城で、室内楽曲を含む2つの原稿が発見され、現存する彼の曲の数は2倍になった。9曲のトリオ・ソナタと、9曲の弦楽四重奏曲である。近年、ジョン・パーサーによって、アースキンに対する関心は復活し、彼の作品を収めたCDも作られた。 出典
関連図書
外部リンク
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