トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)![]() 初代レイヴェンスワース男爵トマス・ヘンリー・リデル(英語: Thomas Henry Liddell, 1st Baron Ravensworth、1775年2月8日 – 1855年3月8日)は、イギリスの地主、政治家、貴族。イングランド北部に炭鉱を所有する地主で[1]、1806年から1807年まで庶民院議員を務め、1821年戴冠式記念叙勲で男爵に叙された[2]。 生涯第5代準男爵サー・ヘンリー・ジョージ・リデル(1791年11月26日没、初代レイヴェンスワース男爵ヘンリー・リデルの弟トマスの息子)と妻エリザベス(Elizabeth、旧姓スティール(Steele)、トマス・スティールの娘)の息子として、1775年2月8日にカウンティ・ダラムのニュートン・ホールで生まれた[2]。1783年から1790年までイートン・カレッジで教育を受けた[1]。1791年11月26日に父が死去すると、準男爵位を継承した[2]。1792年12月12日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1795年にM.A.の学位を修得した[3]。 1796年11月25日、ノーサンバーランド副統監の1人に任命された[4]。1804年から1805年までノーサンバーランド州長官を務めた[1]。 1795年にブルックス(ホイッグ党のクラブ)に加入するなどホイッグ党寄りであり[1]、1801年にカウンティ・ダラム選挙区からの出馬を打診されて辞退したが、1806年イギリス総選挙では出馬して、庶民院議員に当選した[5]。1802年に立候補を取り下げた第2代準男爵サー・ヘンリー・ヴェイン=テンペストはアイルランドからイングランドに赴いて出馬を表明したが、後に健康を理由に取り下げた[5]。ヴェイン=テンペストはリデルが自身の出馬を妨げないという約束を破ったと抗議したが、リデルの当選を阻止するには至らなかった[5]。 議会で演説した記録はなく、採決ではホイッグ党内閣である挙国人材内閣を支持した[1]。しかし、内閣がカトリック解放問題により崩壊すると、リデルは1807年イギリス総選挙でカトリック解放反対派の反対に遭った[5]。リデルは国教会支持を表明したが、選挙戦に挑めるほどの資金がなく、対立候補のローランド・バードンも借金を返済しないうちに立候補することを批判されたため、2人は妥協した[5]。この妥協に基づき、リデルとバードンは立候補を取り下げ、お互い受け入れられる候補としてカスバート・エリソンを支持したが、ヴェイン=テンペストは2人の妥協を「州の選挙権を奪うための陰謀」(calculated to rob the county of its elective franchise)と批判、エリソンが落選してヴェイン=テンペストが当選するという結果になった[5]。ノーサンバーランド選挙区ではホイッグ党のホーウィック子爵チャールズ・グレイから支持を求められたが、リデルは第2代ノーサンバーランド公爵ヒュー・パーシーとの約束を理由に拒否している[1]。 1807年以降は所有する炭鉱や地所の管理に専念し、政治では摂政王太子ジョージに接近した[1]。1796年にエズリントン・パークの邸宅を増築したほか[6]、1808年にレイヴェンスワース城の旧邸宅を解体した後、建築家ジョン・ナッシュを招聘して、城郭風ゴシック様式でピクチャレスクの概念も取り入れた新邸宅を建てた[7]。 1820年に摂政王太子がジョージ4世として国王に即位すると、1821年戴冠式記念叙勲において、1821年7月17日にノーサンバーランド州におけるエズリントンおよびダラム州におけるレイヴェンスワース・キャッスルのレイヴェンスワース男爵に叙された[2][8]。このごろにはホイッグ党と距離をとりはじめ、1820年にはピータールーの虐殺(1819年)に対するジョン・ジョージ・ラムトンの反応を「危険」(dangerous)と評し、第1回選挙法改正の第2次法案(1831年10月)には貴族院で反対票を投じた[9]。 1855年3月7日にレイヴェンスワース城で死去、息子ヘンリー・トマスが爵位を継承した[2]。 家族![]() 1796年3月26日、マリア・スザンナ・シンプソン(Maria Susannah Simpson、1845年11月22日没、ジョン・シンプソンの娘)と結婚、8男8女をもうけた[10]。
出典
外部リンク
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