トム・ウィルソン (音楽プロデューサー)
トム・ウィルソン(Tom Wilson)ことトーマス・ブランチャード・ウィルソン・ジュニア(Thomas Blanchard Wilson Jr.、1931年3月25日 - 1978年9月6日)は、アメリカ合衆国の音楽プロデューサー。 来歴テキサス州ウェーコ市出身。アフリカ系アメリカ人である。ウェーコにあるA. J. ムーア高校に入学し、ニューホープ・バプテスト教会に入った[1]。フィスク大学に入学したのち、ハーバード大学に移った。そこでハーバード・ニュー・ジャズ・ソサエティに深く関わるようになる。 大学卒業後、1955年に900ドルを借りてマサチューセッツ州ケンブリッジにトランジション・レコードを設立した。トランジション・レコードはセシル・テイラーのデビュー・アルバムやサン・ラなどを手がけたが、1957年に倒産。同社のカタログはブルーノート・レコードとデルマーク・レコードに売られた。同年、ウィルソンはユナイテッド・アーティスツ・レコードに働き口を見つけ、そこからサヴォイ・レコードを含む様々なジャズ・レーベルでプロデューサーとして活躍した[2]。 1963年、コロムビア・レコードのA&R部門に就職[3]。同年4月24日、ニューヨークのコロムビア・スタジオで行われたボブ・ディランのレコーディング・セッションでプロデューサーを務める。デビュー時からディランのレコードを担当していたジョン・ハモンドとマネージャーのアルバート・グロスマンの関係が悪化したためと言われている[4]。彼はディランとの出会いを次のように述べている[5]。
1964年2月、サイモン&ガーファンクルがコロムビア・レコードと契約[6]。ウィルソンは同年10月に発売された彼等のデビュー・アルバム『水曜の朝、午前3時』のプロデューサーを務めた。 ウィルソンは1965年6月16日に行われた「ライク・ア・ローリング・ストーン」のセッションまでディランの作品に関わった。一説にはディランが彼をプロデューサーからはずすよう会社に伝えたと言われている[7]。彼はコロムビアを退職する道を選ぶが、会社を去る前にサイモン&ガーファンクルの『水曜の朝、午前3時』に収録されていた「サウンド・オブ・サイレンス」にエレクトリック・セクションを追加録音した。 →詳細は「サウンド・オブ・サイレンス § トム・ウィルソンによるリミックス」を参照 同年9月にシングルとして発売された「サウンド・オブ・サイレンス」は翌年、全米1位を記録した。 1966年、MGMレコードの東部A&Rの部長に採用され、子会社のヴァーヴ・レコードにてヴェルヴェット・アンダーグラウンドやザ・マザーズ・オブ・インヴェンションとの契約にサインし、彼等のアルバムのプロデューサーを務めた[4][注釈 1][注釈 2]。ニコの『Chelsea Girl』のプロデュースも行った。 1970年代の初めにロサンゼルスに移住。マルファン症候群を患い、1976年に最初の心臓発作を起こす[3]。1978年9月6日、心筋梗塞のため死去。47歳没。 主なプロデュース作品脚注注釈
出典
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia