トリアムウドムスックサー高等学校
トリアムウドムスックサー高等学校(タイ語:โรงเรียนเตรียมอุดมศึกษา、英語:Triam Udom Suksa School)は、タイ王国のバンコクに所在する高等学校である。 歴史トリアムウドムスックサー高等学校の設立は、仏暦2479年(西暦1936年)の国民教育計画の改正に端を発する。この計画では、初等教育4年と中等教育6年に加え、高等教育を志望する生徒に対して、大学進学前の2年間の予備教育課程が求められた。この予備課程は、当初は生徒の進学先となる予定の大学が提供するものとされ、これを受けてチュラーロンコーン大学の評議会は、大学進学前の予備課程を提供する学校の設立を1938年1月3日に承認した。設立準備は3か月という短期間で進められ、当時チュラーロンコーン大学の教員養成課程責任者であったモムルアン・ピン・マラクンがこれを指導し、同校の初代校長に就任した。学校は、同氏が校長を務めていたマッタヨム・ホーワン校(โรงเรียนมัธยมหอวัง)の校舎(パヤータイ通り沿い)を引き継ぎ、「チュラーロンコーン大学附属進学準備学校(โรงเรียนเตรียมอุดมศึกษาแห่งจุฬาลงกรณมหาวิทยาลัย)」として設立された。 この学校は、タイで最初の共学であり、1938年5月16日に開校、同月19日より授業が開始された。[1] ![]() 学校は創設後数年間で急速に成長し、1940年度には生徒数が568名に達した。1941年12月、第二次世界大戦中に日本軍が学校を占拠したため、教職員と生徒はバンコク周辺の一時的な校舎へと移転を余儀なくされた。1943年には一時的に元の校舎に戻ったが、1944年1月19日に連合軍による空爆で被害を受け、再び移転することとなった。教職員および生徒の一部は、すでに新たな予備学校キャンパスの設置準備が進められていた国内各地の都市へと移された。 (しかし、政府の方針変更により、その後これらのキャンパスは閉鎖されることとなった。) 戦争終結後も、今度は連合軍によって校舎は引き続き占拠されていた。[1] ![]() 連合軍が学校から撤収した1946年、ようやく授業は正常化した。この時期、政府は予備課程の教育を大学ではなく、一般教育局に属する公立学校で実施する方針を採った。その結果、1947年7月1日付で、同校の管轄はチュラーロンコーン大学から一般教育局へと移管された。以後、同校の生徒は他の一般の生徒と同様に大学入試を受けることが求められるようになり、校名も「トリアムウドムスックサー高等学校」へと簡略化された。ただし、同校は引き続きプラキアオの徽章を校章として使用している。[1] 1947年6月、管轄移管に先立ち、全国の学校制度拡充を支援するため、同校の下に教員養成部門が設立された。この部門は「サティット校(実験学校)」として知られるようになり、マッタヨム1〜6年の教育を行うようになった。1955年にはその管轄が高等師範学校(現在のシーナカリンウィロート大学)へと移管された。現在では、パトゥムワン実験学校として存続している。 [1] トリアムウドムスックサー高等学校が国内有数の名門校とされていることから、近年では、パトゥムワン実験学校は同校への進学者数が最も多い主要な進学元のひとつとして高く評価されている。 1950年代後半、大学進学前の予備課程に対する需要が急増したことにより、中等教育局は通常の中等学校の敷地内に特別な予備課程校を設置するようになった。 姉妹高等学校日本
著名な出身者![]()
外部リンク
脚注注釈出典
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