ニコライ・カプースチン
ニコライ・ギルシェヴィチ・カプースチン[2](英語: Nikolai Girshevich Kapustin、ロシア語: Никола́й Ги́ршевич Капу́стин、1937年11月22日[1] - 2020年7月2日[3][4][3])は、ウクライナ出身のロシアの作曲家、ピアニスト、ミュージシャン[5]。 経歴
1937年11月22日、ソビエト連邦のホールリウカで生まれた[1]。両親は、ベロルシア出身のグリゴリー(ギルシュ)・エフィーモヴィチ・カプースチンとロシア出身のクラヴジヤ・ニコラエヴナ・カプースチナで、父は食肉加工工場で働き、母はタイピストであった。第二次世界大戦のはじめ、4歳の時ニコライは、母親、姉フィーラ(1931生まれ)と祖母とともにキルギスに疎開。1941年から1943年までの2年間、トクマクに住んだ。ニコライの父親は従軍していたが、第二次世界大戦が終わり、1945年の夏に帰国した[6]。 7歳でピョートル・ヴィニチェンコ[7]のレッスンで、ピアノをはじめた。ヴィニチェンコはヴァイオリニストでピアノも教えた。ヴィニチェンコはカプースチンの姉にはヴァイオリンを教えていた。ヴィニチェンコに音楽の才能を見出され、1949年からはリュボーフィ・フランツーゾヴァ[8][9]にピアノを師事。 14歳の時にモスクワに出て、モスクワ音楽院附属音楽学校に入学。学校では、アヴレリアン・ルッバフ[10]のクラスに入り、4年間師事。ピアニストとしては超優秀とは言えなかったものの、ルッバフは即興演奏や作曲の点に長所を見出し、また本人もそれを好んだことから、ルッバフはジャズへの関心を応援した。彼は在学中にラジオ放送ボイス・オブ・アメリカで聴き、ジャズに興味を持ち始め、独自のアイディアに基づいて作曲を試みるようになっていた[11]。折しもスターリン体制崩壊以降の1950年代はジャズがソ連音楽界でも興隆[12]。1950年代初頭には、ジャズ五重奏団を結成し、モスクワのレストラン「ナショナル」で毎月演奏していた。 1956年夏に音楽学校を卒業してモスクワ音楽院に進学。アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルにピアノを師事[13]。1961年にモスクワ音楽院を卒業。同年11月にゴリデンヴェイゼルも死去したことから、彼の最後の学生となった。
音楽院卒業から1972年まで、11年間にわたってオレーク・ルントストレムが率いる国立ジャズ音楽室内管弦楽団の一員としてソビエト連邦中を旅行。1972年から1977年まで、ヴァジーム・リュドヴィコフスキーのソビエト連邦テレビラジオ軽音楽管弦楽団に、1977年から1984年までロシア国立映画交響楽団に参加した。アンサンブルではサクソフォーン奏者のゲオルギー・ガラニャンとアレクセイ・ズーボフ、ギター奏者のアレクセイ・クズネツォフらと共演した[1]。1980年にはチャイコフスキー記念コンサートホールで自作のピアノ協奏曲第2番を演奏している。1984年に映画交響楽団を退いてからは、自作のレコーディングを除いて作曲活動に専念し、多数の作品を生み出し続けた[11]。 長期間の闘病の後、2020年7月2日にモスクワで亡くなり、同年7月6日にモスクワ郊外で告別式が行われた[4]。 作曲作品とその特徴作品番号は161を数える[3]。作曲家としては長らく無名の時代が続いたが、ニコライ・ペトロフ、マルカンドレ・アムラン、スティーヴン・オズボーンなどの巨匠ピアニストらがカプースチンの作品を取り上げるようになり、その名が次第に知られるようになった。日本国内で販売されている自作自演のCDも好評を得ており、特に8つの演奏会用練習曲の人気が高い。楽譜も多数出版されている。 なお、自作のレコーディング活動については2004年に一度引退を表明したが、2008年に再びCDをリリースして復帰した。出版社はムジカ、プリズム、全音楽譜出版社、ショットと複数を渡り歩いた。 作風ジャズとクラシックを融合した独特の作風を持つのが彼の最大の特徴である。年代的には現代音楽に属する作曲家であるが、実験的なものではなく、あくまで聴き手を意識した曲を書いている。 また、本人が優れたピアニストであることから、高度な演奏技巧が求められるピアノ曲を多数作曲している。こうした背景から、彼の音楽は非常に高い演奏効果を有し、演奏会向きといえる。 家族・親族
主な作品→「カプースチンの楽曲一覧」も参照
管弦楽曲協奏曲協奏曲に類似する作品も含む。
室内楽曲
ピアノ曲
参考文献
外部リンク
脚注
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