ノート:大東流合気柔術
武田家の家督についてただし、上記4の座技が多いことに関しては甲斐武田氏との関連を否定する根拠としては薄い。理由は、剣術・柔術は本来馬上で使用するものではないので、もともと騎馬の発達の有無とは関係がないから。もう一つの理由は、一箇条をはじめとする座技の練習はそれ自体が実践技ではなく、手の使い方やタイミングを学ぶための練習であるから。最初から足さばきを含めて練習すると正確な合気の習得の妨げになるため、初心者は足裁きを多用しない座技から練習を開始するのが望ましいと言われる。一方で、熟練したより実践的な大東流の技では、剣術系の足裁きこそが大東流の特徴とも言われる。 と云う文がありますが、不必要な記述だと思うのですが如何でしょうか?大東流合気柔術の伝承史は研究者によって否定されております。4の記述は否定する根拠としての1つであって(実際甲斐武田氏には、馬術や馬上弓術・槍術等、馬を用いた武術は沢山伝承し残っています)根拠が薄いからと伝承史を肯定する理由にはならないと思うのですが・・・。削除しようかと思いましたが、一応議論する必要があると思い皆様の御意見をお聞きしたいと思います。——以上の署名の無いコメントは、222.7.175.8(ノート/Whois)さんが 2006年10月21日 (土) 06:57 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 11:56 (UTC)による付記)。
武田惣角が継いでいた武田家の家督は三男の時宗が継いだと考えられます。厳密に家督と言うと問題があるのかもしれませんが、従来の宗三郎から時宗へと改名させて武田家の家督を継がせたと言う証言があります。また武田惣角は生前にその本拠地を会津坂下から北海道の網走に移しています。武田惣角自身の墓や遺骨も現在網走にあり晩年の生活基盤も北海道であった事実を考えると何らかの理由で会津を離れたと言えるでしょう。なお時宗が「大東流の本部長・総務長を惣角から継いだ」と言う事実はありません。惣角の死後、大東流は各教授代理がそれぞれに後継者を自称したのが現状であり(松田敏美、山本角義、佐川幸義などが明確に後継の宗家、家元、総主などを名乗っており実際に佐川幸義、武田時宗と争った時期もある)戦後の混乱期でもあった為に一部の師範を除いては活動の空白期があります。時宗の後見であった佐川幸義を武田時宗家では惣角の後継者として立てています。(その際に佐川幸義が傳系を調べて初めて36代を名乗っている)その後、佐川幸義から武田時宗へと委譲すると言う形で以後武田時宗が宗家を名乗り始めます。ただ厳密に言って会津坂下の長男、武田清宗の立場がどの様なものであったのか?は武田家の当事者でないと判らない部分もあります)
武田家の家督について2家督とは 1 その家を継ぐべき子。あととり。嫡子。 2 相続すべきその家の財産・事業などの総体。跡目。「―を譲る」 3 民法旧規定で、戸主の身分に備わる権利と義務。戸主の地位。 4 中世、一門・一族の長。棟梁(とうりょう)。 5 江戸時代、武士が、主君から与えられた封禄。跡式。 とあり、戦前の日本においては主に1と2と3であると考えます。 武田惣角家における跡取りは宗三郎から時宗に改名までさせられた三男の時宗であると言われており、相続すべき家は会津坂下の家と網走の家、事業は家業である武道教授業であると考えます。家屋に関しては坂下の家は長男宗清が網走の家は三男時宗が相続しており、武道を具体的に指導教授したのは三男の時宗です。(若干、惣角の死後から間が空いてはいますが)戦前は長男相続が基本ではありますが武田惣角家においては意図的に三男の時宗に相続をさせていると考えられます。 また本家、分家の問題に関しては別段隠居した事実も証言も無い以上、家業と墓を継いだ時宗家が本家、会津に残された宗清家が分家と考えるのが妥当であると思われます。特に墓の問題は重要であり「家の主」が分家の墓に入ると言う事は考えられないと思います。 なお連名の肩書きについては常識的に考えるならば、総務長の武田惣角とその他の武田時宗と考えるべきでしょう。1つの会社に2人の社長が並び立つと言う事態が有り得ないのと同じ理由です。基本的に講習会に助手としてついた師範(教授代理)がいた場合はその師範の英名録にも受講者は記載を行うのが通例であったと伝わっています。武田時宗は直接の子息であり昭和14年当時はまだ学生服の少年でした。英名録を分けるまでもなかったと言う事でしょう。
--ok2 2006年11月25日 (土) 09:06 (UTC) 武田惣角家の家業についてですが、少なくとも武田惣角が物心がついてから農業を行ったと言う話を知りません。先祖伝来と言うよりも惣角の一代前までの家業が例え農業であったとしても、武田惣角の代の家業は武術教授業であると考えるのが筋であると考えます。(一説に家業は神職であると言う話もありますが)また武田家が膨大な農地と大勢の小作人を抱えた農家であったと言う話も知りません。惣角、時宗は自家を会津藩士の家であると主張していますが今日この事に関しては研究者の間では否定的な意見が大勢を占めています。 武田宗清が惣角の庇護を受けずに育ったと言うのなら話は別ですが彼は武田惣角の長男であり当然の事ながら父である惣角の稼ぎによって食べて成長したと考えるのが当然でありましょう。成人後に農業を本業としたとしても、それは武田宗清の問題であります。 なお私個人は仏教徒ではないので位牌についての概念は判りかねます。 家を継ぐと言う行為は戸籍上の問題と家屋敷、墓の相続と維持の問題であると理解しております。 「隠居分家」については、あくまで希望的観測の主張であると感じられます。その様な証言が会津、網走の武田家関係者から発言された事実を耳にされた事がok2さんはおありなのでしょうか? 家屋については会津の家は宗清が、網走の家は時宗が継ぎ、会津の墓地(当然、惣角以前の墓地を放棄なり改装した訳ではないでしょうから)は宗清が、網走の惣角が入っている墓地は時宗が継いだ(管理した)と考えられると思います。 問題は惣角の遺骨は網走にあり、家業であった大東流の技術も時宗しか継いでいなかったと言う事実かと思います。 なお武田宗清と大東流の関係については懐疑的に考えざろおえません。理由は惣角の高弟である佐川幸義の証言に、惣角死後に会津で惣角と大東流を侮辱する武道家が出現した際に宗清は佐川幸義にこの事を訴えて助けを求めていると言う事があります。佐川は宗清からの手紙を見るとすぐに電車に乗り会津に向かい、問題の柔道家を散々に投げ飛ばして前言を撤回させたと言う話があります。(その武道家はその後佐川幸義に入門している)その行為に対して宗清が泣いて喜んだと言う記述が佐川氏関連の書籍にあります。もし宗清に大東流の心得が一定以上あったのならば問題の武道家を自分で倒せば良いのであり、父親の高弟に手紙を送って泣きつく必要性はないでしょう。当時の宗清の年齢と健康状態ががいかほどであったのか?と言う問題はありますが。 「家督」と言うよりは純粋に「家」と考え方がいいように私は思います。あえて考えるなら「本家」「分家」でしょうか。 -- ok2です。もしかするとlotoさんに誤解されているかもしれないと思いましたし、論点が不明瞭になってしまったと思ったので、再投稿させていただきます。 いろいろなケースが考えられる→真相は武田家の当事者でないとわからない→真相がわからないのでWikipediaの記事では家督に言及できない というものです。いろいろなケースが考えられる、いろいろなケースの例として、会津坂下町の武田家が家督を継いでいるという解釈を例を出しました。とにかく、確証が得られるまでは家督には言及しないのが妥当と考えます。この点、lotoさんも「家督」と言うよりは純粋に「家」と考え方がいいように私は思います。とおっしゃっていますので、私と同じご意見かと思います。 一方、武田宗清が大東流を修めていたかどうかについては家督の問題とは全くの別件として投稿しました。 --ok2 2006年11月26日 (日) 09:57 (UTC) その他の記述にある『西郷四郎』に関した記述の中で「そもそも西郷四郎自身、柔道以外の柔術技法を知らなかったとする説が有力である」との記述は明確に間違いなので削除が適当であると考えます。西郷四郎は嘉納治五郎の講道館にスカウトされる以前は天神真楊流の井上敬太郎の道場の道場生であった事が判っていますので上記の記述は間違いであると考えます。 --利用者:loto --219.188.178.200 2006年12月20日 (水) 03:50 (UTC) 上述の家督問題、その後論議がなくなりましたので、このノートから削除したいと思うのですがよろしいでしょうか? (なお、西郷四郎伝の記述に関しては、私(ok2)が投稿したものではありませんが、事実に即して記述するのがWikipediaですから、事実と相違があればご遠慮なく修正されてよろしいかと思います。修正に賛成です) --ok2 2006年12月21日 (木) 14:29 (UTC) 家督問題の件についてをノートから削除されたいとの事ですが、大東流の項目を纏めて行く過程で、こう言う討論があったと言う事を残しても特に問題はないと思うのでこのまま残してもいいのではないでしょうか?別の方が家督問題など同種の事柄を新たに書こうとした場合の指針になるとも思いますので。今後別の問題や討論があれば更に下に書き足して行けば良いと思うのですが如何ですか? 利用者:loto--219.188.178.200 2006年12月23日 (土) 10:03 (UTC) 了解です。 --ok2 2006年12月23日 (土) 12:42 (UTC) 武田宗光に関する記述に、武田家「本家」という表現を復活させました。 合気ニュースが出版する「改訂版 武田惣角と大東流合気柔術」という書籍があります(初版は1992年)。合気ニュースが著名な大東流関係者9人に行ったインタビューをまとめて単行本にしたものですが、この本の中で武田惣角の本籍地に関する武田時宗へのインタビューがありました。武田時宗自身の言葉として、(武田惣角の本籍地は)「福島ではなく私のところにあります。会津から分家してこちら北海道へ持ってきましたから。」と明記してありましたので。 --ok2 2006年12月31日 (日) 01:20 (UTC) 大東流の歴史についてこれまで生家のある会津坂下町を直接取材した作品はなく、先祖名、生家身分、実母などは否定的な証拠があり、福島県内では大東流の調査結果は発表されていない。調査の結果、先祖の武田国次(国次)、武田興平は村内他家のもの、明治戸籍の身分は農民、幕末の父は竹田惣吉(戦争名簿は農民と同じ足軽分)、小野派一刀流名簿は竹田宗角、明治5年戸籍から武田姓(明治42年、村内親戚に武田姓4戸農民)、戊辰戦争後の同居人の藩士御供番佐藤金右衛門は藩主護衛役で御式内の柔術、武芸十八般を教え、孫娘コンは惣角の妻になった。隣村の修験道易者中川万之丞から気合術(気合・合気)、真言密教を学び、柔術に気の力を取り入れて合気柔術を創始した。保科近悳(身長140センチ)は武術の達人ではなく、官尊民卑の時代に柔軟に生きよと、武田姓と甲斐武田を結び付けた史実を与えた。国会図書館の調査でも、武田国次(国継)は甲斐武田の文献に該当者はいないと質問者に回答している。よって、大東流史実は仮託の史実で、武田惣角は大東流の創始者である。近年、国会図書館が公開した4著書に気合術があり、気合・合気の説明がある。「活殺自在気合術」(熊代彦太郎著)と大東流合気武道、武田時宗遺稿集の内容は合致した。合気は千年の昔から、修験や忍者が受け継いできた伝統的文化です。著者池月映「合気の武田惣角」(歴史春秋社) 『甲斐武田家の後胤という特殊性(会津藩主保科家の元の主君筋となる)などもあり藩主直参ではなかったのではないかという説もある。50町歩以上という広大な田畑(領地?)を持ち、また百姓の人別帳、名主帳などには武田家が掲載されていないことから、百姓ではないと思われるし、足軽等の下級武士と考えるのも不自然。武田惣角の父、惣吉は自宅の土蔵を改築して道場としていたが、足軽等の下級武士や一般の武士にはそのような資産や代々受け継ぐ田畑はない。下級武士どころかより上級武士であっても、法度によって大きな屋敷を構えられるものではないため、会津坂下の武田屋敷は異例な存在である。武田惣角の祖先は甲斐武田家の滅亡の折に会津入りして蘆名家に賓客の礼をもって迎えられて領地を与えられたと伝承されている。その特殊な待遇が、蘆名家滅亡後に武田家が仕えた蒲生家、加藤家、保科家(会津松平家)継承されたという可能性もある。』 上記の「本文の異説」の出典の提示をお願いします。
合気ニュースで出版している「武田惣角と大東流合気柔術 改訂版」等です。(注釈1の後半部分の加筆も同様) しかし、やはり冗長ですね。削除します。 現在、私はこの大東流の歴史に関する部分は、もっとシンプルに再構成した方がいいのではないかと思っています。 私自身、「大東流の伝承史を疑問視する意見」に加筆投稿しました。しかし、大東流の歴史というテーマに対する本文的な部分よりも、疑問視する根拠が非常に多くて「大東流の歴史」としてのバランスが悪くなってしまった感じを持っていました。一方、Wikipediaの中立的な立場で、という指針に則り、一方の意見だけに偏ってはならないと思い、疑問視する意見に反論できる根拠となる意見も加筆しましたが、かえって、わずかな本文に注釈がどんどん増えるという感じで、百科事典の記述としてかなり不自然になってしまったのではないかと思います。 で、実際に読み返してみると、大東流の伝承を疑問視する根拠(箇条書き)のうち、1~3は間違いないことですが、4~9に関しては、いずれも推論と推論の根拠であり、事実そのものではありません。反論しようとすればいくらでも反論できますし、またその反論も可能で、きりがないかと思います。 そこで、箇条書きの4~9と注釈は削除してしまい、1~3は簡潔な文章にまとめて、「大東流史はこうである。しかし、現在では疑問視されている」というような形にシンプルにしてしまった方がいいのではないかと思っています。4~7や注釈に関しては、推論とその根拠ではあっても事実確認ではありませんので。 案として、こんな感じでどうでしょうか? 八幡太郎義家(源義家)の弟である新羅三郎義光(源義光)(しんらさぶろうよしみつ/みなもと・の・よしみつ)を流祖とし、甲斐武田氏に伝えられた。甲斐武田氏滅亡後は、一族の武田国継が会津入りしたことにより、現福島県の会津で伝承された。明治維新後、中興の祖である武田惣角(たけだそうかく・万延元年(1870年)~昭和18年(1943年))が、明治後期~昭和初期に全国を行脚して各地で大東流の指導を行って世に広めた。武田惣角は明治30年(1897年)、霊山(りょうぜん)神社にて宮司の保科頼母から大東流を広く世に広めるよう諭されたという。 しかし今日の武術史研究では、大東流の伝承史は武田惣角の口承しか存在しない、武田惣角以前の伝書や記録が発見されていないなどの理由により、大東流の伝承史自体を疑問視する意見が多く、武田惣角が自ら修行してきた古流武術…柔術、剣術(小野派一刀流と直心影流を主に修行したとされている)、槍術など…から武田惣角が生み出した「比較的新しい武術」説が有力である。 これだけの方が精度が高く、わかりやすいのではないかと思います。 なお、現在の記述の中から、「甲斐武田家だけから保科(西郷家)が伝承した」という記述を抜いたのは、御式内=大東流合気柔術ではなく、武田惣角に近しい人のインタビューで、「武田惣角の武田家に伝承されたのが大東流柔術で、保科家に伝承されたのが御式内で、武田惣角が両者を併せた」という話(合気ニュース「武田惣角と大東流合気柔術」)もあるからです。 全部一つの文章にまとめると、また、まとまりがなくてややこしい説明になるので、御式内と保科頼母(西郷頼母)について詳述するのであれば、「歴史」の中に、改めて「御式内と保科頼母について」というような小見出しをたてた方が読みやすいと思いました。 --ok2 2007年1月3日 (水) 07:10 (UTC) 武田家の本家の記述について合気ニュースの武田時宗に対するインタビュー内容を以って、会津坂下武田宗清家を本家と考える事が可能かどうかについてですが、「家制度」の問題から考えると中々に難しい問題があるように思われます。 生前に武田惣角が隠居をした事実があるのか?と言う事を考えるとそのような発言は武田惣角周辺や惣角の門人の中からも一切見られないと思います。では戸籍上(戦前の戸籍は家単位、戦後は夫婦単位)の戸主は誰であったのか?を考えると「武田惣角家」においては惣角が戸主であると考えられます。戸主であればこそ武田時宗に対して「おまえが家督相続人なんだから後の面倒をみよ」(武田惣角と大東流合気柔術244頁)と言う発言を行う事が可能であったと考えます。 戦前の法において戸主が自分の家に属する者に対して「分家」を許す事は出来たとしても、戸主自身が分家して新たに家を起こすと言う事は不可能なのではないでしょうか?惣角が既に隠居していれば武田時宗に対して継がせる事が可能な「家」は無く、いわゆる「武田本家」の戸主であるとしたら長男武田宗清もしくは三男武田時宗に家督相続をさせる事は可能ですが、自身が一部の家族を引き連れて分家すると言う事は「戸籍」と「家制度」の問題上、根本的におかしいと考えます。 江戸時代の大名や旗本のように自己の所領を複数の息子に分割する事ならばまだしも明治以降の日本においては名目上の本家、分家と言う事はあるかもしれませんが、戸籍の問題を考えると意図的に家を分けたり、くっ付けたりと言う事は出来ないように思われます。例外的に家を分けるとしても「戸主自身が家を出て分家を名乗る事」には無理があると思います。 これを武田宗清の立場から考えると、武田宗清は父武田惣角から家督を譲られて戸主となるか?自身が分家して新たな武田家の戸主となるしか戸主になる方法がないのではないでしょうか?これは武田時宗の立場も同じです。 なお本の中で武田時宗が言う「会津から分家してこちら北海道に持ってきましたから」と言う発言内容も少々不可思議に思われます。(質問を受けているのは武田惣角の本籍地であるのに、「会津から持って来た」と言っている点、何を持って来たのか?)ただ論理的に考えるならば、武田時宗から見て会津坂下は自家(北海道に住む武田家)のルーツであり、「会津こそが本家もしくは武田家の本拠地である」と言う思いがあっても不思議には思いません。ただ問題となる厳密な意味での本家、分家と言う問題を考えると、武田惣角の家督を受け継いだのが武田時宗であるのならば「武田時宗家」が本家になると言うのが筋かと思われます。 最後にok2さんは「武田宗清家」に事のほか思い入れが強いように見えるのですが、正直言って「大東流史」の記述では武田宗清と武田時宗のどちらが本家であろうと然程重要な問題ではないように考えますが如何ですか?
武田時宗がインタビューに答えた「会津から分家してこちら北海道に持ってきましたから」と言う発言について考えて見ます。戦前の家単位の戸籍で考えると「武田惣角」が戸籍の本籍地を会津坂下から北海道滝川に持って来た(移した)と考える事が出来ます。この場合、戸籍は家単位なので同じ戸籍に記載される事になる息子達(宗清、時宗ともに)の本籍地も北海道に移る事になります。武田宗清の本籍、戸籍が会津坂下に残る事が出来るとしたら、父であり戸主の武田惣角が本籍地を北海道に移す前に「分家」して新たな家の戸主となっている可能性が考えられます。 武田時宗のインタビュー内容を信じるならば「おまえが家督相続人なんだから後の面倒をみよ」と言う命令を武田惣角が戸主(家長)として息子の1人である武田時宗に命じた事になります。意訳すると「武田惣角家の将来的な家督相続人は武田時宗なのだから諸々の面倒はお前が見るように」と言う事になるでしょう。既に武田惣角が隠居していて武田宗清に戸籍上の戸主(家長)の立場を譲っているとしたら、この発言内容は明らかに変であると思います。 それと以前に出て来た「隠居分家」は戦前の戸籍制度の上においては、実行が無理なのではないかと思われます。戸籍制度が制定される前の江戸時代以前の風習であったと考えられます。前にも書きましたが本家の戸主を隠居した「隠居」が新たな分家を興して、その戸主となる事は不可能であると考えます。息子が複数いるのであれば1人にその家の戸主を継がせ、残りの者に分家を許すと言う形式しかありえないのではないでしょうか? 最後に武田惣角が会津坂下武田家の本家戸主であったのか?と問われるとよくわからない面があります。惣角には早世した兄とは別に弟がいたと記憶しています。本来家を継ぐべき次男の惣角が放浪癖があり日本全国を巡回していた為に、この三男が会津坂下武田家を継いだ可能性も全くは否定出来ません。
lotoさん、こんにちは。 またまた長文で失礼します。 >正直言って「大東流史」の記述では武田宗清と武田時宗のどちらが本家であろうと然程重要な問題ではないように考えますが如何ですか? そのご意見には賛成です。 大東流史、大東流という技の伝承経路と、武田家の家系というのは、切り離して考えるべきだと思います。ですから、武田家の本家がどこか、というのは「大東流合気柔術」という項の中では些細なことですし、言及する必要すらないかもしれません。 ただ、私が伝承者のコーナーに武田宗光を加筆したときに、現在存命の現役伝承者の中で「武田惣角の子孫」ということ、そして、会津坂下町の武田家を継いでいる、ということで、何気なく本家、家督という言葉を使用しました。(その時点では、深く考えておりませんでした) そのときに、宗清が家督を継いだというのはおかしいのではないか、というご意見をいただき、そこからいろいろ考え込んでしまったのです。 特に宗清家に特別な思い入れがあるというわけではありません。「本家」「家督」という言葉の定義にひっかかってしまったという感じです。 lotoさんとノートで意見交換するまで、明確に考えたことはなかったのですが、私の中では「(戸籍法上の問題ではなく)先祖伝来の土地家屋を受け継いだ者が実質的に本家である」という気持ちがありました。 lotoさんがおっしゃった ただ論理的に考えるならば、武田時宗から見て会津坂下は自家(北海道に住む武田家)のルーツであり、「会津こそが本家もしくは武田家の本拠地である」と言う思いがあっても不思議には思いません。 という話こそが、私が考えていたところだと思います。また、20歳そこそこだった会津の武田宗光が武田時宗に大東流を習いたいと申し込んだとき(ちょうど時宗は山田水産を定年退職した時期だった)、よろこんだ武田時宗はわざわざ北海道から会津に通って宗光を指導したといいます。こうした話も、武田時宗が会津を本家と考えていたらしいと推察できます(まぁ、あくまで推察ですが)。そんなこんなで、私の中で暗黙のうちに「会津が本家、網走が分家」という思いこみがありました。それで、深く考えずに、武田宗光の加筆するときに、武田家本家、と記述したのです。 一方…個人的なことで恐縮ですが…私自身、江戸時代以前から先祖代々同じ土地で暮らし、本家、分家制度の中で日常生活を送っています。過去には隠居分家もありますし、分家の中には、全く血縁のない分家もあります。何かの折りにとても世話になったりした人が、お世話になった家を本家と仰ぎ、名字をもらって分家となることもあります(任侠映画で言う義兄弟のような家の関係?)。法的には本家分家とか家長制度がなくなった、現行法の戦後にも昭和30年代に分家を一軒だしました。で、私の経験的な知識で収集した武田家の情報から見ると、会津が(戸籍法上の問題ではなく実質的な)本家であると思えたのです。戸籍法上どういう扱いになるか、というのは考えておりませんでした。(なお「会津の武田惣角」の著者、池月映も、私と同様の考えのようです) lotoさんとの話がかみ合わなかった最大のポイントは、lotoさんが戸籍という法的な観点からご意見を述べられていて、私は「親戚づきあいの伝統」という慣習的な観点から考えていたからだと思います(血族だけでなく、近所づきあい、村役などの継承も含めて)。 まぁ、いずれにせよ「武田家」としては重要な問題かもしれませんが、「大東流史」としては直接関係のない些細なことですね。ただ、ここでのlotoさんとの意見交換をきっかけに、私自身本家分家制度を見直すことができましたし、改めて大東流史もいろいろ調べることができて、大変勉強になりました。ということで、私が気を留めていたのは宗清家、というより、「本家」「分家」という扱い方です。「大東流史」という観点では些末な問題ですので、ご異論があれば、本家という記述を削除することに異論はございません。(ただ、もし、Wikipediaの項として、宗清家を分家、と明記するようなことがあれば、前述のように慣習的な観点から納得できませんので、私が異議を申し立てるかもしれません^^;) >惣角には早世した兄とは別に弟がいたと記憶しています。 武田武三郎ですね。また、余談ですが、早世した武田惣角の兄、惣勝も子供を残しており、惣勝の子供は分家したそうです。 それと、昨年末に福島で実際に会津坂下町の御池(武田惣角の実家がある集落)の方に話を聞く機会があったのですが、網走の大東館とは別に、会津坂下町の武田家でも宗清、宗義…と大東流が伝承されていたそうです。ただ、地主ですし、議員や村役などもされていて忙しかったためか、あるいは秘伝という考え方が残っていたのか、地元の一部の人だけに教えていて、積極的に多くの人に教えるようなことはなかったそうです。 (すべて敬称略) --ok2 2007年1月6日 (土) 06:50 (UTC) ok2さん、こんばんわ。 こちらもいつも長文になってしまい申し訳ありません。 基本的に今回の事は「武田宗清家」「武田時宗家」のどちらか?を「本家」であると明記する必要性は無いと思いますので、武田宗光氏が会津武田家の本家を継いだと言う記述を削除する事で終わりで良いと思います。 ただ1つだけ書かせて頂きたいのですが、父祖の地に現存するから本家であると言う考え方には反対の立場を表明させて頂きます。ok2さんは私が「戸籍法」の立場を取り、ok2さんは「慣習的」な立場から主張が違うと言う言われ方されていますが、家の分割の問題は国の法によって行われる事柄であって江戸時代には徳川幕府なり各藩ごとの法(当然ローカルルールがあるかもしれません)に従い、明治以降は日本国と言う国の法のもとで行われて来た事であります。「慣習」などと言うなあなあの事柄ではなく国家の「法」によって定められ、それに従って行われて来た事であると言う事を忘れてはならないと思います。長らくその家が生きて来た地を離れても本家は本家であり(行方が判らないとかなら話は変わって来ますが)、その地に残った一族の者が勝手に本家を名乗ると言う行為は許されないと考えます。(ただ数代を経れば実質的にはスライド現象が起きて最も本家に近い分家が新たな本家と言う事なるのでしょうが)国の法や何らかの決まりに則らずに行う、勝手に唱える事柄は「自称」と言う事になるでしょう。 この場合、本家の戸主(当主)たる武田惣角が会津坂下の地を永遠に去り、北海道の地でその地で共に暮らす息子、この場合は三男の武田時宗に家督を相続させたならば武田時宗が武田家の本家の戸主(当主)と言う事になります。天皇家をはじめ源氏、平氏、藤原氏などの諸氏が日本全国に広がって行く中にあっても、家格や家系と言う物が諸氏族に存在するのは、そう言う理屈であると考えます。これは武道の宗家にも言える事であり本来の宗家が絶えたからと言って残りの皆伝師範家が突如として宗家を名乗る事は甚だ可笑しな事であると思います。(そう言う筋違いは現在多々存在はしますが、いわゆる宗家病) なお上で書いた中で1つ書き忘れましたが、武田宗清もしくはその子孫が本家の戸主(当主)になる方法はもう1つあり、本家の戸主(当主)の養子になると言う方法を忘れていました。古来から家を継ぐ為に分家から養子に入ると言う話は多々あります。 水戸黄門の印籠ではありませんが、武田時宗が武田惣角家(本家?)の家督相続人であると言う事の出典は前記しましたように、「武田惣角と大東流合気柔術」244頁の「お前が家督相続人なんだから後の面倒を見よ」と言う武田時宗の発言を根拠とします。 上記した「会津こそが本家もしくは武田家の本拠地である」はより正確に書くならば「会津こそが武田家の本拠地である」と言う武田時宗個人の郷愁の念であると言えるでしょう。武田時宗がそう思うのは理解出来るし構わないと思うが武田宗清家が本家である事の根拠にはならないと思います。 なお別に分けて書こうかとも思いましたが「会津の武田惣角」は私も持っていますが歴史資料ではなく小説であり、それを出典とするのは問題であると思います。どんなに精緻に書かれていても小説、漫画、ドラマの類を出典とするのはウィキペディアの正確性を歪め損ねるものだと思います。 まあ武田時宗家にも大東流の時宗伝にも何ら義理の無い、他派大東流の私が武田時宗家の擁護するのも変な話ですが(笑)
lotoさん、お返事ありがとうございます。 >武田宗光氏が会津武田家の本家を継いだと言う記述を削除する事で終わりで良いと思います。 了解です。異論ありません。 それから、「大東流合気柔術」の「歴史」のところを、シンプルにして、推論の部分を外すという案についてはいかがでしょうか? (このノートの「大東流の歴史について」のところ) 以下はWikipedia本文の記述に関して…ということはなく、余談なのですが… 武田時宗が武田惣角家(本家?)の家督相続人であると言う事の出典は前記しましたように、「武田惣角と大東流合気柔術」244頁の「お前が家督相続人なんだから後の面倒を見よ」と言う武田時宗の発言を根拠とします。 私は、書籍のこの部分の文章を、武田惣角が北海道に分家した後の、「分家の」家督相続と解釈しました。前述のように、同じ本の中で時宗が「会津から分家して」という発言があったからです。 改めて考えてみましたが、おっしゃるように、法的にも惣吉が宗清を養子にして家督相続した可能性、そもそも惣角は家督を相続していない可能性もあります(惣角の捜索願が出されたこともありますし、放浪癖があって、実質宗清を育てたのは惣吉のようですから)。さらに、旧民法の970条以降では、特に取り決めがない場合の法定相続人としては、同じ親等であれば嫡出子、年長者を相続人とするとありますから、もし、惣角が家督を継いでいても、特に時宗に家督を相続させる法的な手続きをしていなければ、宗清が家督相続しているという可能性もあります。もちろん、時宗が正式に家督相続している可能性もあります。 まぁ、このあたりはあくまで推論でしかないので、いくらここで話をしてもナンセンスですね(^^;) 実際に戸籍を追ってみない限りわからないところです。そういえば、自分の先祖の戸籍については明治初期までさかのぼって調べることができますが、他人の戸籍は…さすがに閲覧させてもらえないんでしょうね。もし可能なら、実際に会津坂下町や網走市にいって古い戸籍を確認させてもらうのが確実でしょうね。(ちなみに、私の祖父が他界したとき、自分の家の戸籍を調べてみましたが、そのときは明治初期の最初の戸籍までさかのぼって閲覧できました。役所が火災などで焼失していなければ、基本的に原本はすべて保管されているということです) なお、これまたさらに余談で、あくまで一般的な話ですが……当時の家督相続を制度の法的根拠であった民法と戸籍法、それによって運用される戸籍については、当時としては新しいシステムで、戸籍ができてから一般に定着するまで約半世紀かかりました(江戸時代にも人別帳はありましたが、それは数年から10年に一度、村役が回って歩いて調査するもので、家族構成がかわるたびに自分で届けるものではありませんでした)。戸籍に関する届けを出す習慣が未定着だったため、明治31年以前には太政官令で、それ以後は法令で…大正時代まで、繰り返し、「子供が生まれた出生届を出すように、結婚したら婚姻届を出すように、家督相続、あるいは分家したら届けを出すように」と通達が出ています。逆に言えば、届けを出さない人が相当数いたわけで、社会秩序維持のため、実際には届けを出していなくても実際の生活状況(田畑や家屋の継承、祖先祭祀の継承、地域社会での立場…近所づきあいや村役などの役職の継承)で追認することが多くありました。 (ご存じでしたらよけいな話ですみません) それから、誤解だと思うのですが…私は「会津の武田惣角」を資料、出典にはしていません。あくまで小説は小説ですから。小説「会津の武田惣角」ではなく、「会津の武田惣角」の著者である池月映の取材レポート(ウェブサイト等に掲載)を資料にしました。 --ok2 2007年1月7日 (日) 05:20 (UTC) ok2さん、ご無沙汰しています。 武田家の本家とは?と言う問題は突き詰めて行くと、直接の子孫の方でないと判らない問題なのではないかと思います。(下手をすると双方が自家を本家と主張する危険性もありますが)今後この大東流の項目に武田惣角の有力な子孫の方が追記をされるような事は基本的にないとは思いますし、たとえあったとしてもその真実性?を確認する手段はないでしょう。ただ会津と網走のどちらが本家であるか?と言う問題は大東流全体の歴史とは切り離して考えても問題ないと私は思います。 私は思うのですが確かにその場を見て来たわけではないですから武田惣角が何を基準に本家を誰に継がせたのか?は確実には判らないと思います。ただ日本と言う国が法律に依って治められているのならば、原則としてはそれに準じて物事は進んで来ているのでは?と思いますし、それを尊重する事を最初から放棄してしまっては歴史を調べたり語ったりは出来ないのではないかと思います。物事には例外もあるだろうし色々な見方が出来ていいとは思いますが特殊な説を出す場合にはそれ相応の根拠を示す必要があるのだと。 敢えて言うならば「私個人」は武田時宗の上記の言葉を根拠に「武田時宗家本家説」を支持していると言うだけの話であり他の見解や立場を取る方がいてもいいと思います。(悪い意味での泥沼状態にウィキペディアがなるのは歓迎しませんが) 別な表現の仕方をするならば「会津の武田家は武田宗清が継いで、北海道の武田家は武田時宗が継いだ」と言う表現は如何でしょうか?間違いではないと思うのですが。まあ一種の灰色表現ではありますが。 将来的に新たな事実や記録、関係者の証言が出て来る事を期待するものであります。
はい、賛同いたします。 |
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