ノート:青山里戦闘
を参照しました。同氏による『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』も青山里戦闘を取り上げています。この二つの作品を土台に、NAVER翻訳掲示板の人達の調査を反映させています。英語版には、気に食わない投稿を primary research だと言って削除しようと試みる人がいるのですが、日本語版ではどうなんでしょうか? 私には何が primary research で、何が primary research でないのか分かりませんが。 NAVERでの報告は[1]から辿ることができます。使われた史料の大部分はアジア歴史史料センターで公開されているので、オンラインで検証することができます。 ここに書き漏らしたけど面白い話は他にもあります。「金佐鎮将軍記念事業会」が捏造写真を掲載しているとか、金佐鎮がその後日本政府に泣き付いたとか、朝鮮側の言うことが本当なら、第19師団74連隊は朝鮮人ゲリラに二度も絶滅させられているのにソビエトとアメリカが相手なら戦い抜けたことになってしまうとか。 --Nanshu 2005年2月28日 (月) 13:39 (UTC)
このページって何で保護されてるの?代言人 2005年12月12日 (月) 06:50 (UTC)
了解です--代言人 2005年12月12日 (月) 11:51 (UTC) 保護解除に向けた議論保護解除に向けた議論を提起します。
双方の編集履歴を比較したところ、IPユーザ氏による版は同じ段落で日本軍、大日本帝国軍と書くなど文の完成度が低いです。またCommonsenses氏による版は一方的で中立性を欠き、定義部にはふさわしくありません。総じてNanshu氏による版が中庸かつ明瞭簡潔であると考えます。Tatsujin28 2007年1月4日 (木) 03:48 (UTC)
Commonsenses氏が2007年1月1日以降、ログイン(投稿)されていない様です。利用者ノートページへの呼び掛けは行っていますので、2007年3月末まで(通算して約三ヶ月)待ってから、保護解除を申請したいと思います。Tatsujin28 2007年2月12日 (月) 01:27 (UTC)
分割「青山里戦闘は韓国側による呼称であって、日本側による呼称は間島方面出兵、間島方面討伐など」というのがそもそも間違いで、この記事がかなり針小棒大な記事に仕上がってしまっているのは明白です。それだけでなく、この{{不正確}}な定義付けがもとで歴史にそれほど関心のない読者を惑わしてしまいます。というわけで{{正確性}}タグを付けておきます。それだけではなく、青山里の戦いを説明する記事としては必ずしも必要でない情報が余りにも多いので{{内容過剰}}のタグを付けておきます。実際に日本側で戦闘自体に関わったのは、東正彦少将指揮下の「東支隊」のみですから、間島出兵 (何故か間島事件にリダイレクトされている)と青山里戦闘 (「青山里の戦い」とかでもいい)とに分割する必要があります。 この記事の内容を読むと、大半が間島出兵に関するもので、ボックスのデータも間島出兵のものと青山里戦闘のものとが入り乱れていて、指揮官と戦力の部分が間島出兵のもの、被害の部分が青山里のものになっています。「背景」、「経過」のうち大部分 (どうやら『間島出兵史』の丸写しっぽいので、東支隊関連部分を含めここは要約するのが望ましいですね)、「参加兵力」は、間島出兵に、導入部のうちの不正確でない部分、「経過」のうち「東支隊」の関連部分、および「争点」は青山里戦闘 に、という形で分割するのがよろしいかと考えます。Takabeg(会話) 2015年6月25日 (木) 04:44 (UTC) なお、加納信暉という記事を作るのが有益ではないかと思います。Takabeg(会話) 2015年6月25日 (木) 04:44 (UTC) |
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