ノート:飯塚幸三/飯塚幸三 (下書き)このページはノート:飯塚幸三で議論するための下書きです。--Assemblykinematics(会話) 2021年9月30日 (木) 10:23 (UTC)
飯塚 幸三(いいづか こうぞう、1931年〈昭和6年〉6月1日[1][2] - )は日本の研究者、通商産業省技官。東京大学工学博士[10]。専門は計量学。測定器誤差と形状誤差を分離して真円度・円筒度測定ができるマルチステップ法の開発者。15年間委員を務めた国際度量衡委員会では日本人初の副委員長にも就任し[16][17]、世界計量記念日を提唱[18]。国際計測連合(IMEKO)では会長を務めた[19][20]。 中央計量検定所、計量研究所において[9][21]硬さ測定[22][23]や形状誤差[14][24][25]、物性計測など測定・計量の研究に取り組み、計量研究所所長、工業技術院長[4]、クボタ取締役(常務[26]、専務[20]、副社長[27][28])を歴任。計測の国際標準化活動にも貢献し、日本計量振興協会や計測自動制御学会では会長を[29][30][26]、日本工学アカデミーや日本工業標準調査会では副会長を務めた[19][20]。 日本計量振興協会の会長退任後も、計量や計量標準、度量衡や国際組織の歴史について講演を行うとともに[31][32]、各種学協会で理事や顧問を務めた[33][34][35][36][37]。計測自動制御学会功績賞受賞者(2003年度)[15]。2015年秋には瑞宝重光章を受勲したが[3][19]、201x年y月に起こした*******事故[38]により2021年9月に**X年の**判決が確定し[39]、*月に褫奪となった[40][注 1] 来歴・人物生い立ち・学生時代1931年6月1日、東京府内[1](現・東京都中野区[9])で生まれる。太平洋戦争末期は旧制中学生で、空襲により自宅を焼失している[9]。好きな科目は理科で、東京府立第四中学校(現・都立戸山高校)、旧制浦和高等学校(埼玉大学の前身)を経て、新制の東京大学理科1類に進学[9]。大学ではオーケストラに在籍し、クラリネットを担当[42][43]。工学部応用物理学科の計測工学専修に進み、卒業研究は日置隆一の元で光学に関するテーマに取り組んだ[9][注 2]。 計量研究所時代1953年に東京大学を卒業し、後の計量研究所である通商産業省工業技術院中央計量検定所に就職[9][45](のちに茨城県新治郡桜村[46]、現在のつくば市に移転するが[13]、当時は東京都板橋区にあった[21])。計量研究所では各種硬さ標準の研究を手掛けることになり、ショア硬さの研究に従事(ロックウェル硬さには矢野宏が取り組んだ)[9][22]。振り子型の試験機を試作し[9][47]、ハンマーや圧子の変形が影響すること[48]など、ショア硬さの諸条件を実験的に解明した[23]。 この間、1958年3月から1959年6月まで、政府在外研究員としてイギリス国立物理学研究所(NPL)に滞在した[5][6]。また、1967年7月開催の第4回から国際計測連合(IMEKO)の総会に参加するようになり[9][49]、技術委員会でも代表委員を務めるようになる[50]。さらに同連合に対する日本の加盟団体であった計測自動制御学会[注 3]の「IMEKO委員会」でも委員長を務めた[51][52]。 今井秀孝とは微小球面の曲率半径を求める手法を開発し[53]、1970年の英語論文は論文賞も受賞[14](#光計測応用も参照)。1972年には博士論文『ショアかたさ目盛の精度向上に関する研究』を提出し、論文博士として東京大学で工学博士の学位を取得[10]。さらに形状誤差(幾何公差)の研究にも取り組んでいき[13]、後藤充夫とは真円度測定や円筒形状測定に取り組み、測定器誤差と形状誤差を分離することに成功した[24][25][11]。(#マルチステップ法も参照。) また、部下や学生とともに物性計測の研究にも従事[13]。超音波により応力を測定する技術[54]や、レーザー干渉計で材料の線膨張係数[55]や縦弾性係数[46]を計測する技術などを開発した。この間3年ほど研究企画官も務め[13][56]、さらに計量研究所力学部の部長を3年ほど務める[57]。一方で1980年から日本機械学会の質量・力計測システム調査研究分科会で主査を務め、同分科会で質量と力に関する計測法の基礎と応用をまとめた報告書を1983年に完成させている[58]。 1983年、計量研究所の所長に就任[57]。所長就任に伴い、国際法定計量委員会委員やISO/REMCO(標準物質委員会[59][60])の日本代表委員も務める[57]。1986年2月からは国際度量衡委員会の委員を務めることになり[57][61]、以後15年間委員を務め、名誉員も含めると17年間関与した[57][62][16]。 行政・経営・国際事業における貢献1986年、工業技術院の院長に着任[1]。基礎研究の重要性を強調し[57][63]、新しいNEDOの発足(「新エネルギー・産業技術総合開発機構」への改組)や新規事業導入(研究基盤整備事業、研究開発事業、国際研究協力事業)を推進[63][64]。「脳機能の解明のための基礎研究」や「生体機能のための分子論的アプローチのための基礎研究」を支援する国際ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム機構[65][注 4]の設立を推進した[66][57]。 1989年に工業技術院を退官し、機械振興協会の副会長に着任[1]。同年8月から1991年5月まで、同協会の技術研究所長も務めた[7]。その後クボタの常務取締役[26]、専務取締役[20]、副社長[27][28]を歴任。クボタでは技術開発本部を組織し[57]、同本部長を務めた[8]。この間、文部省学術用語集「計測工学編」における増補改訂のための調査研究にも関与[67]。1992年度には計測自動制御学会会長を務め[26]、1995年度から4年間は国際ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム機構の会長も務めた[65][68][69]。 その後、日本工業標準調査会では副委員長に就任[20][27][28]。1996年に閣議決定された科学技術基本計画の作成に携わった科学技術会議 総合計画部会 基本問題分科会にも参加し[70]、1996年から1999年には中華民国(台湾)の行政院科学技術部で国外顧問も務めた[71]。さらに、国際度量衡委員会では日本人初の副委員長に選出され[16][62]、1999年の委員会では世界計量記念日を提案した[18]。また、1997年から国際計測連合会長を務め、1999年に日本で初開催された世界大会でも大会委員長を務めた[27]。 2000年、クボタ副社長を退き、顧問に就任[72]。その後は日本計量振興協会会長[29][30]や三豊科学技術振興協会理事長[73][74]に就任[注 5]。日本計量振興協会では計量士の教育や計量・トレーサビリティの普及・教育を推進する事業を展開し[76]、経済産業省が11月1日の計量記念日に実施する行事では計量記念日組織委員長を務めていた[77]。 計量史への貢献2002年、2003年と、『計測と制御』や『計量史通信』に計量標準や国際計量体制の歴史について寄稿[59][61][62])。田中耕一が特別講演を務めた2003年の「計量標準100周年記念講演会・記念式典」では、「計量の一世紀を振り返って」と題して招待講演を行った[75]。2008年には計測自動制御学会のインタビューで日本における計量標準について語った[78]。なお、日本計量振興協会では会長退任後も顧問に就任[79](2011年までは会長[30]で、遅くとも2013年には顧問[79])。 理事を務める日本計量史学会では、2014-2015年のメートル原器調査研究委員会で委員長を務める[80]。2015年秋の叙勲では通産行政事務功労により瑞宝重光章を受章[3][19](2021年褫奪、#事故と勲章褫奪で後述)。同年12月には日本計量史学会と計測自動制御学会力学量計測部会の合同で、特別講演会を伴う祝賀会が催された[31]。2016年3月には1時間半に及ぶ特別講演で、日本の計量技術や国際計測連合(IMEKO)の歴史を語っている[31]。 2017年には日本のメートル原器の歴史についても講演[32]。以降も日本計量振興協会 顧問[33]、日本計量史学会 理事[34][81]、計測自動制御学会力学量計測部会 顧問[35]、日本工学アカデミー 顧問[36]、三豊科学技術振興協会 理事[37]、光科学技術研究振興財団 評議員[33]などを務め、2019年3月の日本計量史学会定時総会・研究発表会にも出席し、懇親会では乾杯の音頭を取っていた[81]。 事故と勲章褫奪→詳細は「*********」を参照
2018年に足を痛め、杖******ようになる[82]。医者からは******ように言われ[83]、********も手間取るようになった[84]。2019年*月**日、*********を起こす[85]。***************で、飯塚自身や妻も負傷した[86]。**は*******を**し、2021年*月、**X年の**が確定する[87]。**3年以上のため、勲章褫奪令により2021年*月**日付けで瑞宝重光章は褫奪となった[88]。 研究開発マルチステップ法後藤充夫ともに真円度や円筒度の計測手法に取り組み、フーリエ級数を用いて測定器の誤差と形状の誤差を分離することに成功した[24][25][11]。円筒度に関する論文は1975年に精機学会の第9回青木記念論文賞を受賞し[14]、「精度分離可能な真円度測定器」は東京精密から製品化された[11]。この手法は「マルチステップ法」と呼ばれ、JIS7451「真円度測定機」の中で規格化されている[89][12]。精度の基準となる回転精度検査用標準器の真円度を検査・校正する真円度校正器にも、この技術は用いられている[12]。なお、この手法は厳密には誤差を分離できていないという課題があったが、産業技術総合研究所で改良が進められた[90][91]。 光計測応用東京大学では光学の研究室に在籍[9]、計量研究所は光波干渉技術を強みとしていた[59]。今井秀孝とともに薄板をマイクロメータ計測の検証にモアレ縞を利用し[92]、微小球面の形状測定ではニュートンリングを応用した[53]。後者の測定では、半径1mmの微小半球面(凸型)に対しレプリカ(凹型)を作成し、透過型顕微干渉法を用いてニュートンリングからデミングの最小二乗法で球面の曲率半径や断面の真円度を高精度に求めた[53]。また、レーザー干渉計で材料の線膨張係数[55]や縦弾性係数[46]を導出する研究にも取り組んだ。 クボタ技術開発本部クボタは農機のみならず秤など計測機器を開発しており[93][94]、久保田鉄工の時代から技術開発研究所を持っていた[95][96]。同研究所は動的な質量計測などの技術を開発するとともに[95][96]、所属技術者が計測自動制御学会の質量・力計測部会[95]や日本機械学会の質量・力計測システム調査研究分科会[94][97]に参加していた。飯塚はクボタの専務時代に研究開発本部を設立[57]。研究開発本部長を務め、『クボタ技報』で計測制御特集が組まれた際には、計測技術の論文が多かった[8]。後年組織はなくなったが、「在任中指導した社員たちが今も社内外で活躍しているので、それなりの役割は果たせた」と述懐している[57]。 国際計測連合 (IMEKO)国際計測連合(IMEKO)において、1967年7月開催の第4回から総会に参加[9][49]。技術委員会のTC5「硬さ測定」やTC8「測定学」で代表委員を務めるようになり[50]、IMEKOに対する日本の加盟団体であった計測自動制御学会[注 3]の「IMEKO委員会」では委員長を担当した[51][52]。さらに1997年から2000年にはIMEKOの会長(President)を務め[98][99]、この間1999年6月に大阪で開催された日本初開催となるIMEKO世界大会では大会委員長を務めた[27]。飯塚が会長を務めた影響で、日本人のIMEKOへの参加が増えたと言われている[98]。IMEKOの諮問委員会では名誉委員を務め、2013年の韓国での世界大会時にも出席していた[100]。2016年に今井秀孝らが2021年IMEKO世界大会の日本招致を勝ち取った際には関係者と喜びを共にするとともに、招致の経緯を寄稿した[101][注 6]。 受章歴社会的活動(学術団体)
(国際団体)
(国家関係)
(その他、協会など)
主な著作学位論文
著書(共著・分担執筆)
(編集・監修)
解説記事(硬さ試験・標準)
(物性計測・精密測定)
(測定・計量標準)
(その他)
(回想)
(対談・座談会)
脚注注釈
出典
関連文献
外部リンク
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