ハイラム・ショウ・ウィルキンソンサー・ハイラム・ショウ・ウィルキンソン(Sir Hiram Shaw Wilkinson、1840年6月13日 - 1926年9月27日)は、主に中国・日本に勤務した英国の裁判官・外交官で、帰国後には治安判事、副統監を務めた。 略歴ハイラム・ショウ・ウィルキンソンは父ジョン・ウィルキンソン、母アナベラ・ショウ間に、1840年、ベルファストに生まれた[1]。1864年にはプルディ・ガフィキンと結婚した。妻は1870年に死亡しているが数人の子供があり、息子の一人であるハイラム・パークス・ウィルキンソンは父と同様に中国・日本で裁判官を務めている[1]。 ウィルキンソンはクイーンズ大学ベルファストに学び、1864年には学士号、1881年には法学博士号を取得している[2]。1872年、ウィルキンソンはミドル・テンプルの法廷弁護士に認められた[2] 。 大学卒業後の1864年から、横浜の英国領事館に通訳生として雇用された[2]。この期間の領事業務を通じて流暢な日本語を身につけた[3]。1876年までには、ウィルキンソンは東京の英国公使館の通訳官となっており、また横浜の領事裁判所の非常勤判事を兼ねていた。1877年には同裁判所の法務書記官代理となった[4]。 ウィルキンソンが日本で公務についていた時期は、最初期の日本語通訳生で、後に在日本公使(1895年-1900年)・在中国公使(1900年-1906年)となったアーネスト・サトウの勤務時期(1862年-1883年)と重複する。後年、サトウはウィルキンソンを在上海英国高等領事裁判所の判事に推薦したことを述べている[5]。 職歴
在上海英国高等領事裁判所の最高法廷弁護士を務めていた際に、1896年に横浜で発生したイーディス・カルー事件の検事を行うように依頼されている。在日本英国領事裁判所の判事に任命されて間もない1899年に、日本における領事裁判制度は終わりを告げた[脚注 1]。しかし、中国・朝鮮ではまだ領事裁判が行われていたため[脚注 2]、上海で死亡したサー・ニコラス・ジョン・ハネン(Sir Nicholas Hannen)の後任として、在上海英国高等領事裁判所の主席判事となった。1903年にはナイトの称号を授与された[7]。1905年に引退し、家族と共に北アイルランドのマネーシェイネル(Moneyshanere)に移住した。 息子の一人であるハイラム・パークス・ウィルキンソンも上海で最高法廷弁護士を務めており、親子合わせると44年間その任務にあったこととなる。 晩年帰国後、1914年から死亡した1926年までクイーンズ大学ベルファストの副学長を務めた[2]。1917年には、ロイド・ジョージからアイルランド評議会(Irish Convention)への参加を要請されている[8]。1918年の11月18日のベルファスト・テレグラフ紙は、ウィルキンソンが第一次世界大戦で戦死した第36アルスター師団兵士の記念碑作成のために寄付をしたことを伝えている[9]。1922年にはアイルランド共和軍から脅迫を受けている[6]。また、ロンドンデリー県の治安判事及び副統監を務めた[2]。 1926年9月に、トバーモア(Tobermore)にて死去[7]。 脚注参考資料
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