ハツユキ
ハツユキ(1962年4月8日 - ?)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬・繁殖牝馬。1965年の桜花賞を優勝。 馬齢は2000年まで使用されていた旧表記(数え年)を用いる。 経歴父ソロナウェーはアイルランド生産の競走馬・種牡馬で、競走馬時代にはアイリッシュ2000ギニーなどを制し、種牡馬としては1959年に日本に輸出された後も多くの活躍馬を輩出し、1966年には日本リーディングサイアーとなるなど1960年代の日本競馬を代表する種牡馬の一頭となった。 母父トサミドリは1949年に皐月賞と菊花賞のクラシック二冠を制し、後に種牡馬として数々の活躍馬を出し殿堂入りも果たす。 戦績1964年(3歳)11月に東京でデビューし人気に応えると、暮れの中山では3歳牝馬Sで2着、ひいらぎ賞(80万下)3着と好走。1965年(4歳)は加賀武見とコンビを組み、1月の福寿賞(100万下)→2月のシクラメンSと連勝。桜花賞を目指して西下し、前哨戦のオープンは1番人気に支持されるも、伊藤雄二が騎乗して4着。本番では阪神3歳Sを含む5連勝のエイトクラウンが1番人気、同じソロナウェー産駒で阪神3歳Sは3着のベロナが2番人気、ハツユキは3番人気であった。鞍上の加賀はレース直前に厩務員から「フケ(発情)の兆候が見られている。走らないかも」と言われていたが、それを逆手に取って「発情した牝馬は馬群に近づきやすい習性がある。それなら逃げてやろう」と考え、見事鮮やかな逃げ切り勝ちに導いた。エイトクラウンは4着、ベロナは12着と大敗を喫した。関東に戻ると、不良馬場で行われたトライアルの4歳牝馬特別も人気に応えて快勝するが、人気が予想された優駿牝馬は回避しそのまま引退。 優駿牝馬で加賀はベロナに騎乗し、逃げ切って制覇し、史上初の違う馬で牝馬二冠を獲得。いずれも逃げ切りで勝っており、「逃げの加賀」を全国のファンに強く印象付けた。 同年のクラシックはソロナウェー産駒の当たり年で、桜花賞馬ハツユキ、オークス馬ベロナ、ダービー馬キーストンを送り出した。 引退後引退後は1966年に繁殖入りし、13頭の産駒を送り出した。産駒にはオープン勝ちを含めて中央で7勝を挙げたヤマキチカラ[1]がいるが、他に目立った活躍馬はいない。子孫の活躍馬では曾孫ヤマノフレアリングが道営記念、栄冠賞に勝ち[2]、フレアリングマズル(マイルグランプリなど)[3]やフレアリングアロー(ニューイヤーカップ)[4]、フレアリングルーラ(ヤングチャレンジカップ)[5]などを産んでいる。 競走成績
血統表
同名馬同名馬のうち、1954年産まれのプリメロ産駒の牡馬は、1957年の大井盃(現羽田盃)と春の鞍(現東京ダービー)を制している[8]。 脚注
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