ハリー・ポウレット (第4代クリーヴランド公爵)
第4代クリーヴランド公爵ハリー・ジョージ・ポウレット(英: Harry George Powlett, 4th Duke of Cleveland KG、1803年4月19日 - 1891年8月21日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)。 出生時の名前はハリー・ジョージ・ヴェイン (Harry George Vane) であり、1827年から1864年まではハリー・ジョージ・ヴェイン卿(Lord Harry George Vane)の儀礼称号を称した。 生涯1803年4月19日、ハリー・ヴェインは第3代ダーリントン伯爵ウィリアム・ヴェインの3男として誕生した。父のウィリアム・ヴェインは1827年にクリーヴランド侯爵、1833年にクリーヴランド公爵に叙された。 ハリー・ヴェインは1821年にオックスフォード大学オリオル・カレッジへ入学、1829年に学士号(B.A.)を授与された[1][2]。卒業後は外交官となり、1829年に大使館員(Attaché)としてパリへ、1839年から41年まで公使館書記官(Secretary of Legation)としてストックホルムへ赴任した[1][2]。その後1841年から1859年まで南ダラム州選挙区選出の、1859年から襲爵する1864年までサセックス州ヘースティングズ選挙区選出の自由党所属庶民院議員を務めた[1][2]。 1864年、兄の第3代クリーヴランド公爵ウィリアム・ヴェインが死去すると、ヴェインは兄からクリーヴランド公爵・クリーヴランド侯爵・ダーリントン伯爵・バーナード子爵・バーナード男爵などの爵位を継承した[1][2][3]。また同年勅許を得て母方の姓であるポウレットへと改姓し[4]、第4代クリーヴランド公爵ハリー・ジョージ・ポウレットと称した。 クリーヴランドは1865年にガーター勲章を授けられた[5]。1866年に初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルの第2次内閣が第二回選挙法改正をめぐる質疑で崩壊の危機に陥ると、彼は自由党(ホイッグ党)と保守党(トーリー党)による反改革派の連立政権における首相候補として挙げられた[6]。 1891年にクリーヴランドが死去すると、クリーヴランド公爵位をはじめほとんどの爵位は断絶した[1]。ただし従属称号であったバーナード男爵については、遠戚のヘンリー・ヴェインへと継承された。 家族ハリー・ヴェインは1854年8月2日に第4代スタンホープ伯爵フィリップ・ヘンリー・スタンホープの娘であるキャサリンとケント州シェベニングで結婚した[1][3]。二人の間に子供はなかった。 なお彼女は第4代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの長男であるダルメニー卿アーチボルド・プリムローズと結婚したが、夫に先立たれていた[1][2][3]。 出典
外部リンク
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