ハンセン病元患者宿泊拒否事件ハンセン病元患者宿泊拒否事件(ハンセンびょうもとかんじゃしゅくはくきょひじけん)とは、2003年11月に熊本県阿蘇郡南小国町のホテルが、元ハンセン病患者の宿泊を拒否した事件である。関連する事件を総称していう場合もある。 事件の経緯2003年9月17日、熊本県は「ふるさと訪問事業」の催行にあたり、アイレディース宮殿黒川温泉ホテル(後述)に国立療養所菊池恵楓園の元ハンセン病患者18名と付き添いの4名の宿泊を予約した[1]。11月18日から一泊する予定であり、この事業は過去に何度も催行されていた[1]。 11月13日になって、事情を知った同ホテルから「他の宿泊客への迷惑」などを理由に宿泊を遠慮するように申し入れがあった[1]。翌14日、県担当者が親会社であるアイスターへ出向きハンセン病についての理解を求めたが、ホテルは方針を変えなかった[1]。そこで熊本県知事・潮谷義子の抗議文を県職員が手渡し、宿泊拒否の撤回を求めたがホテルは応じなかった。 そのため熊本県庁は、11月18日に熊本地方法務局へ報告を行い、人権侵害ならびに旅館業法違反の疑いにより熊本地方検察庁の調査が開始された[1][2]。この対応については賛否両論があったものの、2004年2月16日にはアイレディース黒川温泉ホテルを、旅館業法違反により営業停止処分とする方針が発表された[3][4]。同日にアイスターは「入所者への最大かつ最善の謝罪」として同ホテルの廃業を表明している[3][5]。 そして、県は同ホテルに対し3月15日から17日までの営業停止処分を決定したが、その直前の12日にアイスターによる記者会見が行われた[6][7][8][9]。会見においてアイスター側の弁護士は「加害者は県で、被害者は元患者とホテル」であるとした上で、「訴状も用意し真剣に訴訟を準備したが、(処分を呑んだのは)真実が明らかになることで、傷つく人が出るのは避けられないためだ」と説明した[10]。 熊本地方検察庁は2004年(平成16年)3月29日、旅館業法違反容疑により、アイスター元社長(事件当時の社長)である西山栄一、同ホテルの総支配人、法人としてのアイスターを略式起訴、熊本地方裁判所は三者に対し、罰金2万円の略式命令を下した[11][12]。 アイレディース宮殿黒川温泉ホテル熊本県阿蘇郡南小国町の黒川温泉において営業していたホテルであり、エステ施設を備え集団客を主たる対象としていた。事件後の2004年5月6日をもって廃業し、直後に建物も取り壊されている[9][13][14]。この際、株式会社アイスターが同ホテルを取得する以前から働いていた従業員を含め、上級管理職を除く全員の解雇が通告されたため、この決定に反発する労働組合との団体交渉が行われたものの決裂、最終的には裁判によってアイスターが総額7000万円を支払うことによる和解が成立した[15][16][17]。 中傷この宿泊拒否事件において、元ハンセン病患者は被害者であったにもかかわらず、一般市民の中には彼らを中傷する者が少なからずいた[18]。 中傷する手紙の内容の酷さについては、菊池恵楓園のある入所者がシンポジウムで以下のように語っている[19]。
また、詩人でらい予防法違憲国家賠償訴訟・東日本訴訟の原告の1人だった谺雄二も
と語っている[20]。谺は元ハンセン病患者の権利回復運動の闘士の1人として知られていたが、その谺が弱音を吐くほど中傷内容やその数の多さは深刻だった。 アイスター宿泊拒否問題に関連して、熊本県や恵楓会自治会に送られてきた中傷の手紙類は、全療協 (旧・全国ハンセン病患者協議会 (全患協)) と国賠訴訟原告団協議会が厚生労働省に提出した報告書 (2004年2月25日提出) や、国立療養所菊池恵楓園自治会が冊子化し内部発行した「差別文書綴り」 (2004年4月19日発行) に記録されている[19]が、ともに入手は難しい。ただ、数は少ないが、伊波敏男著『ハンセン病と生きて―きみたちに伝えたいこと』(岩波ジュニア新書、2007年刊) の中でそのうちの一部が紹介されている。同書が紹介しているのは次のような中傷の手紙である[21]。
前述の2004年2月25日に厚生労働省に提出された報告書では、中傷の手紙類を、ハンセン病に対する無知、宿泊拒否を受けたのが保菌者ではなく元患者であることを理解していないもの、ハンセン病患者の強制隔離政策に関する無知に基づくもの、障害者全般に対する差別・偏見に基づくもの、謝罪を受け入れないことに問題があるような報道がなされたことによる反発、単純な誹謗中傷、に分類している[19]。 また、上記のように、国家賠償訴訟によって日本国政府から得た賠償金に関する妬みからの嫌がらせ、権利を主張するなという類の投書・電話・ファクシミリ・電子メールも多い。これらの中傷は、「国民の一人として」「一市民より」とは書くものの、すべて匿名でなされ、決して本名を名乗ることはなかった[22]。上記の中傷投書の数々は冊子として編纂され、国立ハンセン病資料館の図書室に開架図書にて収蔵されており、閲覧が可能である。 脚注出典
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia