ハーグ密使事件
![]() ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)とは、1907年(明治40年)に、大韓帝国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人の密使を送った事件。日本による朝鮮半島の権益を狙っていたロシアに招待されたことで第二次日韓協約によって日本に奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも、招待したはずのロシアが手のひらを返したため、参加国全てから拒絶され、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になった。事件後、高宗は責任追及され退位し、内政権も法的にも失った。手のひらを返されて招待していないことにされたが、当初は日本の持っていた朝鮮半島管轄権を狙っていたロシアに公式招待されていたため、大韓民国では「ハーグ特使事件」と呼ぶ[1]。 概要日本は、1905年(明治38年)の第二次日韓協約によって大韓帝国の外交権を手にいれた。李容泰、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ジャーナリストアーネスト・トーマス・ベッセルやアメリカ人宣教師ホーマー・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に使いを派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。派遣されたのは李相卨(元議政府参賛)、李儁(前平理院検事)と李瑋鍾(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次男)の3人である。 ハーグに到着した彼らは、デ・ヨング(De Jong[注釈 1])ホテル[注釈 2]に投宿し、公然と活動を始めた。しかし会議に出席していた列強は、大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表していることなどを理由に、三人の会議出席を拒絶した。出席を拒まれたため、やむなく抗議行動として現地でビラ撒きや講演会を行った。 日本は、万国平和会議の首席代表として派遣されていた都筑馨六特命全権大使がこの事件に対応した。また大阪毎日新聞から派遣されていた高石真五郎は連日、特派員電として現地の情勢を伝えた。この時、高石は日本人としてただ1人、彼らと面会している。 彼らは、具体的な成果を得ることはできなかった。そして、その一人である李儁は、7月14日にハーグにて客死した。責任を問われた高宗は子の純宗へ譲位した。同年7月24日に韓国統監の権限強化をうたった第三次日韓協約が締結された。この事件によって、大韓帝国は外交権に加えて、内政権も日本に接収されることになった。 経過
委任状(親書)の偽造疑惑前述のデ・ヨング(De Jong)ホテル[注釈 4]には、皇帝高宗の「委任状」の写真が飾られている。これには「大皇帝」という文字の下に自筆署名と、その下に「皇帝御璽」の印が押されている。しかし、この署名や印について、イ・ヤンジェ(李儁烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)や印刻専門家のチョン・ビョンレ(古岩篆刻芸術院院長)は「偽造された可能性が高い」と指摘している。 ソウル大国史学科の李泰鎮は、「任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状ではないか」と推測している。オランダ国立文書保管所の担当者によると「3人がハーグで皇帝の委任状を提示したという記録はまったく存在していない」と語っており、委任状の存在自体の確認が正式には取れない状態である[8]。 親書の内容事件に先立つ1907年1月16日、「大韓毎日申報」は前年ロンドン・トリビューン紙に掲載された、高宗の親書を転載する形で改めて報じた。その内容は次のようなものであった。
脚注注釈出典
本事件を題材とした作品関連項目 |
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