このページ名「
バンによるボスニア統治時代 」は
暫定的なもの です。
(2016年2月 )
この項目では、1180年 から1377年 までのバン(首長) によるボスニア 統治時代 について記述する。バンによって統治されていたボスニアは、現在のボスニア・ヘルツェゴビナ の大部分とダルマチア 、セルビア 、モンテネグロ の一部を領域としていた。
「ボスニアのバン」は名目上ハンガリー王国 の家臣とされていたが、事実上は独立した国家となっていた[ 1] [ 2] [ 3] [ 4]
[ 5] 。1377年 にバンのスチェパン・トヴルトコ1世 (英語版 ) が戴冠式で王国の建国を宣言し、ボスニア王国 が建国される。当時のボスニアの歴史の大部分はローマ・カトリック教会 と東方正教会 の両方から異端 と非難された土着のボスニア教会 に関する宗教的論争を中心に記録されており、特にカトリック教会はハンガリーを通してボスニア教会の信徒と敵対し、迫害した[ 6] [ 7] [ 8] 。
歴史
1184年当時のバルカン半島。緑の部分がボスニアにあたる。
10世紀 から12世紀 にかけてボスニアは外国の支配下に置かれ、1180年 にハンガリー王国 はビザンツ帝国 (東ローマ帝国)からボスニアに対する宗主権 を獲得する[ 9] 。1180年にボスニア最初のバンとなったクリン (Ban Kulin )はボスニア民族の偉人の一人に挙げられ、彼の治世はボスニアの黄金期として記憶されている[ 10] 。クリンの統治時代にボスニアの人々は、近隣のセルビア人 やクロアチア人 とは異なるアイデンティティー と習俗を身につけ、「ボスニア人」としての自我が芽生え始めたとされる[ 11] 。ただし、それが民族的ないし宗教的というより、「ボスニアという領域に対する共通の帰属意識」であったことを柴宜弘 は指摘している[ 12] 。また、ラグサ共和国 (ドゥブロブニク )の商人によってボスニアの商業活動が振興され、イタリア の職人 もボスニアで活躍していた[ 10] 。
中世のボスニアは、概してローマ・カトリック 世界の一部であり、12世紀以降は教皇庁 の宗主権が行使された[ 13] 。しかし、信徒はドゥブロブニク大司教 の管轄下にあったが篤実な信仰とは言えず、ラテン語 などの言語の読み書きができる人間もごくわずかな範囲に限られていた[ 14] 。
一方で13世紀には、独自の教会組織であるボスニア教会 が創設される[ 15] 。しかしボスニア教会は、周辺諸国から追放された異端のボゴミル派 の疑いをかけられ、1203年 に教皇庁 から派遣された使節によって調査が行われた[ 16] 。クリンは異端ではないことを主張し、教皇 の権利への服従を認めるが、その後もボスニアはたびたび異端の疑いをかけられる[ 16] 。ボスニア教会は二元論を特色とする点でボゴミル派などと共通するが、他方でカトリックの教義を部分的に受け入れていたことから、その分派・分離派と見なす見解が優勢と言える[ 13] [ 17] [ 18] 。
クリンの死後、ハンガリー王国はボスニアの支配を試みて数度の介入を行った。ハンガリーはボスニアのキリスト教信仰が異端であるという名目を掲げ、当初は聖職者 を介した工作活動を行ったが失敗した。そのためハンガリーは、教皇庁 に働きかけてボスニアへの十字軍 (英語版 ) 派兵の承認を受ける[ 19] 。1235年 から1241年 にかけてボスニアはハンガリー軍の攻撃に晒され、ハンガリー軍はヴルフ=ボスナ(現在のサラエヴォ )にまで達する。しかし同時期に、モンゴル帝国 がハンガリー本土に侵入したため退却した[ 19] 。軍事行動に失敗したハンガリーは教皇庁に働きかけて支配の強化を試み、ボスニア内のカトリック教会はドゥブロブニク大司教からハンガリーの大司教の管轄下に移される[ 19] 。だが、ハンガリーから派遣された聖職者はボスニアから追放されてスラヴォニア 地方のジャコヴォ に移らざるを得ず、以後ボスニアはカトリック世界との関係を遮断する[ 19] 。
1252年 にボスニア北部(下ボスニア)はハンガリーの支配下に置かれ、バンの元にはボスニア南部の丘陵地(上ボスニア)だけが残される[ 10] 。ボスニアには「異端」と見なされた信者の正統な信仰への復帰のためにドミニコ会 の修道士 が派遣されていたが[ 16] 、下ボスニアにはフランシスコ会 の修道士が移住した[ 10] 。
1299年 にクロアチア のシュビッチ家 (英語版 ) が下ボスニアの支配権を掌握し、ハンガリー王国の封臣として一時的に南北ボスニアの統合に成功するが、1322年 に民衆反乱によってシュビッチ家の支配は終わりを迎える[ 10] 。
1358年当時のバルカン半島西部。ピンクの部分がボスニアにあたる。
1318年 にバンに選出されたスチェパン・コトロマニッチ (英語版 ) はハンガリーとの外交関係の回復に努め、コトロマニッチ統治下のボスニアは基本的にハンガリーの同盟国の立場を保っていた[ 20] 。1321年 にセルビア王 ステファン・ウロシュ2世ミルティン が没した後のセルビアの混乱を利用し[ 20] 、1325年 /26年 [ 20] にボスニアはハンガリーとセルビアの係争の地となっていたフム地方 (英語版 ) (ほぼ現在のヘルツェゴヴィナ に相当する地域)の獲得に成功する[ 10] 。ボスニアはスプリト からネレトヴァ河口 に至る海岸線を支配下に置き、歴史上初めて海への出口を確保することができた[ 10] 。コトロマニッチの治下では鉛 、銀 の鉱山の開発が実施され、産出された鉱物はアドリア海 沿岸部に輸出された[ 21] 。
13世紀半ばからおよそ100年の間、ボスニアはカトリックの聖職者、寺院、信徒が存在しない状況に置かれていたが、1340年代からコトロマニッチは「異端」の非難をかわすためにフランシスコ会の宣教師を招聘する[ 22] 。1342年 にはフランシスコ会の司教代理区が設置され、1347年 頃にはコトロマニッチ自身もカトリックに改宗する[ 21] 。ボスニア教会の信徒はコトロマニッチの改宗に反発し、ボスニアとセルビアのステファン・ウロシュ4世ドゥシャン の間に戦争が勃発した際に彼らはセルビアを支持する[ 10] 。
コトロマニッチの時代のボスニアは国家組織が確立されておらず、土地の統治は各地の領主 に委ねられていた[ 23] 。1353年 にスチェパン・コトロマニッチの甥スチェパン・トヴルトコ (Tvrtko I of Bosnia )が即位した後、ボスニアはおよそ17年の間内紛と外国の干渉に苦しむ。1360年代初頭までにトヴルトコはボスニア北部での支配権の回復に成功し、セルビア人諸侯のボスニア南西部への介入を阻止する[ 24] 。1370年にボスニアの内情は安定を取り戻し、トヴルトコは領土の拡張に取り掛かる[ 10] 。1374年 に上ドリナ 地方とリム川 流域がボスニアの領土に編入され、フム地方全体とセルビアの領土に含まれていたサンジャク地方 の大部分がボスニアの支配下に置かれる[ 25] 。
1377年 にトヴルトコは「セルビアとボスニアの王」として戴冠式を行い、これ以降ボスニアの君主はバンの称号ではなく王を称するようになる[ 26] 。
脚注
^ John Van Antwerp Fine. The Late Medieval Balkans: Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest. University of Michigan press, 1994, p 44. . https://books.google.co.jp/books?id=LvVbRrH1QBgC&pg=PA44&redir_esc=y&hl=ja
^ John Van Antwerp Fine. The Late Medieval Balkans: Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest. University of Michigan press, 1994, p 148. . https://books.google.co.jp/books?id=LvVbRrH1QBgC&pg=PA148&redir_esc=y&hl=ja
^ Richard C. Frucht. Eastern Europe: An Introduction to the People, Lands, and Culture, Vol. 1. ABC-CLIO, 2004, p 627. . https://books.google.co.jp/books?id=lVBB1a0rC70C&pg=PA627&redir_esc=y&hl=ja
^ Paul Mojzes. Religion and the war in Bosnia. Oxford University Press, 2000, p 22; "Medieval Bosnia was founded as an independent state (Banate) by Ban Kulin (1180-1204).".
^ Funk & Wagnalls Standard Reference Encyclopedia. New York, Standard Reference Works Pub. Co, 1959, p 1333; "The Hungarians later made Bosnia a banate (province) and placed it under the control of an official known as a ban. Bosnian independence from Hungarian overlordship was effected during the reign (1180-1204) of Ban Kulin".
^ Bringa, Tone (1995). Being Muslim the Bosnian Way . Princeton University Press. pp. 15. https://books.google.se/books?id=iqtVESaJUgkC&pg=PA15
^ Curta, Florin (2006). Southeastern Europe in the Middle Ages, 500-1250 . Cambridge University Press. pp. 433–34. https://books.google.co.jp/books?id=YIAYMNOOe0YC&pg=PA433&redir_esc=y&hl=ja
^ Pinson, Mark (1994). The Muslims of Bosnia-Herzegovina: Their Historic Development from the Middle Ages to the Dissolution of Yugoslavia . Harvard University Press. pp. 4–7. ISBN 0-932885-09-8 . https://books.google.co.jp/books?id=Yl3TAkJmztYC&pg=PA4&redir_esc=y&hl=ja
^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』23-24頁
^ a b c d e f g h i クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、69-73頁
^ 柴『図説 バルカンの歴史』新装版、30-31頁
^ 柴『ユーゴスラヴィア現代史〈新版〉』21-23頁。
^ a b 唐沢「中世のボスニア」36-37頁。
^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』25頁
^ 長島「宗教の概要」213頁。
^ a b c 富田、石井「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」『新カトリック大事典 』第4巻、670-671頁
^ 柴『ユーゴスラヴィア現代史〈新版〉』22頁。
^ 唐沢「〈コラム〉ボゴミルをめぐって」217頁。
^ a b c d ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』27頁
^ a b c ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』28頁
^ a b ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』29頁
^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』28-29頁
^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』37頁
^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』37-38頁
^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』38頁
^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』38-39頁
参考文献
唐沢晃一「中世のボスニア:激動の時代」柴宜弘・山崎信一編著『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(明石書店、2019年)36-40ページ。
唐沢晃一「〈コラム〉ボゴミルをめぐって」同上『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』217-219ページ。
スティーヴン・クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』増補版(柴宜弘・高田敏明・田中一生 訳、恒文社 、1993年3月。)
柴宜弘 『図説 バルカンの歴史』新装版(河出書房新社 〈ふくろうの本〉、2015年7月。)
柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史〈新版〉』岩波新書、2021年。
富田裕、石井祥裕「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」『新カトリック大事典』第4巻収録(上智学院新カトリック大事典編纂委員会編、研究社 、2009年4月。)
ロバート.J.ドーニャ、ジョン.V.A.ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(佐原徹哉 ・柳田美映子・山崎信一訳、恒文社 、1995年11月。)
長島大輔「宗教の概要:「ボスニア的なるもの」は存在するか」前掲『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』212-216ページ。