バーナード・フレイバーグ (初代フレイバーグ男爵)![]() 初代フレイバーグ男爵バーナード・シリル・フレイバーグ(英: Bernard Cyril Freyberg, 1st Baron Freyberg, VC, GCMG, KCB, KBE, DSO& Three Bars、1889年3月21日 - 1963年7月4日)は、イギリスの陸軍軍人、政治家。 二度の世界大戦に従軍した後、1946年から1952年にかけてニュージーランド総督を務めた。 経歴1889年3月21日、ジェイムズ・フレイバーグの息子としてイングランド・サリー州・リッチモンドに生まれる[1][2]。 家族とともに幼い頃に英領ニュージーランド・ウェリントンへ移住した[3]、同地のウェリントン・カレッジを卒業した[1]。 ウェリントンで歯科医をしていたが、1914年3月にはメキシコに行き、パンチョ・ビリャの軍に大尉として参加した[3]。 第一次世界大戦が勃発すると海軍大臣ウィンストン・チャーチルの声掛けで王立海軍予備員の少尉となり、ガリポリの戦いに参加した[3]。1916年5月には陸軍に大尉として移り[4]、フランスで戦った[3]。一次大戦中、9回負傷し、6回殊勲者公式報告書に名前が載る勇戦をした[1]。階級は大尉でありながら、仮准将(temporary brigadier-general)を務めたこともある[3]。 1922年の総選挙では南カーディフ選挙区の自由党候補として庶民院議員選挙に立候補したが、落選している。1927年に少佐に昇進[5]。1930年と1931年にはマンチェスター連隊の第一大隊長に就任した[1]。1929年には中佐[6]、1931年には大佐に昇進した[7]。 1933年9月には陸軍省に勤務[8]。1934年7月に少将に昇進した[9]。 第二次世界大戦が勃発すると第2ニュージーランド遠征軍と第2ニュージーランド師団の司令官に就任し[3]、クレタ島の戦いや北アフリカ戦線、イタリア戦線などで指揮を執った。1942年には中将に昇進した。 戦後の1946年から1952年にかけてニュージーランド総督を務めた[2][1]。 在任中の1951年10月に連合王国貴族フレイバーグ男爵に叙され、貴族院議員に列した[10]。 1953年から1963年にかけて名誉職のウィンザー城副城守兼副総督(Deputy Constable and Lieutenant-Governor of Windsor Castle)を務めた[1]。 1963年7月4日にバークシャー・ウィンザーで死去した。爵位は息子ポール・フレイバーグが継承した[2][1]。 栄典爵位1951年10月19日に以下の爵位を新規に叙される[2][1]。
勲章
家族1922年6月14日に陸軍軍人ハーバート・ジキル大佐の娘バーバラ・ジキルと結婚。彼女との間に爵位を継承する一人息子ポール・フレイバーグを儲けた[2][1]。 出典
外部リンク
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