バールレ=ナッサウ
バールレ=ナッサウ(オランダ語: Baarle-Nassau [ˌbaːrlə ˈnɑsʌu] ( 21箇所ものベルギーの飛び地が町の中に点在しており、さらに、場所によってはベルギーの飛び地の中にオランダの飛び地がある「国境線だらけの町」である。ベルギーの飛び地はバールレ=ヘルトフ(Baarle-Hertog)という町である。なお、家の中を国境線が通っている場合は、正面玄関がある方の住民ということになっている。 歴史→詳細は「バールレ (村)」を参照
![]() ローマ帝国の植民都市として、紀元前1世紀頃に築かれたといわれている。歴史書にその名前が記されたのは992年である。 12世紀末に起こった係争の結果、現在のオランダ領であるブレダ南部の広大な領地を、ブラバント公爵がブレダ領主に対して封建領地として与えたといわれている。その当時はまだ、人が住んでいない林と平原の土地だったという。しかし、ブラバント公爵は自らが所有する土地として現在のバールレ=ヘルトフ(ベルギー領の地区)を手元に残していた。ナッサウはブレダを領したナッサウ家(オラニエ=ナッサウ家)、ヘルトフ(オランダ語で公爵の意味)はブラバント公爵領であったことを意味する。 1648年のヴェストファーレン条約によりブレダ領はオランダ共和国領となり、ブラバント公爵領が取り残される(スペイン領ネーデルラントに属する)形となった。 1810年以降にネーデルラント全土がフランス帝国の直接支配を受け、また1815年に大オランダ王国が成立して両者が一旦は同じ中央政府の下に置かれたにもかかわらず、1843年にベルギーが独立した際に両国政府および住民の間で調整がつかず、再び国境線が復活した。 1991年に締結されたシェンゲン協定によってオランダとベルギー間の移動はほぼ完全に自由になったものの、飛び地が点在している状況では様々な問題が起きるため、オランダとベルギーの間で何度か飛び地解消に向けた交渉を行った。しかし、この状況を利用する住民の反対などもあり、解消されないまま今日に至っている。 市内のガソリンスタンドでは、オランダ領よりもベルギー領にある方に行列ができる。理由はガソリン税がベルギーの方が安いからである。また市内ではオランダとベルギーの両方の食べ物を楽しむことが出来る。 ギャラリー
交通アクセスバス
鉄道鉄道は通っていない。最も近い鉄道駅までの行き方。
脚注
外部リンク座標: 北緯51度27分 東経4度56分 / 北緯51.450度 東経4.933度
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