バーレーン首長国

バーレーン首長国
امارة البحرين (アラビア語)
ザンド朝 1783年 - 1971年 バーレーン国
バーレーン首長国の国旗
国旗
バーレーン首長国の位置
公用語 アラビア語
首都 ムハッラク
(1783年 - 1923年)
マナーマ
(1923年 - 1971年)
首長ハーキム
1783年 - 1795年 アフマド・ビン・ムハンマド・アール・ハリーファ英語版
1961年 - 1971年イーサ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファ
首相
1970年 - 1971年ハリーファ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファ
面積
1971年758km²
人口
1941年89,970人
1959年143,135人
1971年216,078人
変遷
独立 1783年7月23日
イギリス保護国1861年5月31日
カタール独立1868年
イギリスより独立1971年8月15日
通貨イギリス領インド・ルピー英語版
(19世紀 - 1947年)
インド・ルピー
(1947年 - 1959年)
湾岸ルピー
(1959年 - 1965年)
バーレーン・ディナール
(1965年 - 1971年)
時間帯UTC +3(DST: 無し)
ccTLD.bh
現在バーレーンの旗 バーレーン

バーレーン首長国(バーレーンしゅちょうこく、アラビア語: إمارة البحرين, ラテン文字転写: Emārat al-Baḥrayn, 英語: Emirate of Bahrain)は、かつてバーレーンに存在した首長制国家である。首都ムハッラクマナーマ

かつてはポルトガル王国ペルシア帝国の支配下にあったが、1783年ズバーラ英語版を拠点としていたバニー・ウトバ族英語版ハリーファ家がバーレーン侵攻を開始し、のちに支配を始めた[1][2]。だが、イギリスインド洋覇権を固めるとバーレーンもその影響下に置かれ、1861年平和友好条約英語版を締結しイギリスの保護領となった。その後1971年バーレーン国としてイギリスから独立した。

歴史

ハリーファ家の台頭

ハリーファ家イスラム教スンナ派を信仰するウトバ族英語版の一族で、1766年に現在のクウェートから、バーレーンに移住した。その後ハリーファ家はズバーラ英語版(現・カタール)にズバーラ首長国アラビア語版を建国する。1776年にはペルシア人バスラを占領したため、多くのアラブ人がズバーラへやってきて活気を帯び、湾岸の伝統産業である天然真珠採りの基地の1つとなった。一方、当時ザンド朝の影響下でバーレーンを統治していたナスル・アール・マズクール英語版率いるブーシェフル首長国アラビア語版がこれに反発し、ハリーファ家と紛争を起こしたがサバーハ家率いるクウェート首長国がハリーファ家側についたこともあり、最終的にハリーファ家側が勝利しバーレーンを占領した。

そうして1783年に独立したバーレーンだったが、領内にはハリーファ家とそれとともに移住してきたジャラーフマ家英語版が中心となっていた。結局ジャラーフマ家はバーレーンでの処遇に不満があり、故郷であるカタールに戻った。しかし、そこもハリーファ家が遠隔支配していたため、10kmほど離れたホール・ハサン英語版に居を定めた。そしてハリーファ家はバーレーンとカタールの支配を固めた[3]

ハリーファ家の統治

ハーキムを元首とする首長制国家となったバーレーンでは、アフマド・ビン・ムハンマド・アール・ハリーファ英語版が初代首長となった。アフマドの治世(在位:1783年 - 1795年)は極めて平穏であり、ペルシア湾での真珠の生産と貿易を活発化させ、大きく成長した。

外国との紛争と平和友好条約

1796年第一次サウード王国アハサー占領後にズバラに侵攻した。父アフマドの跡を継いだサルマ―ン・ビン・アフマド・アール・ハリーファアラビア語版首長は戦いに敗れ、バーレーン東部のジョーアラビア語版に移り、その後リファーに要塞を作った。1799年にはスルターン・ビン・アフマド率いるオマーンがバーレーンを攻撃し、この時も敗れた。オマーンとの戦いは勝ち負けの繰り返しであり、最終的には第一次サウード王国がバーレーン支持に回って保護下に置き、1810年にサウード王国領となった。

1811年エジプトがサウード王国を侵攻しハリーファ家はオマーンと同盟を結ぶも、そのオマーンもカワーシム家英語版の攻撃に会い弱体化した。これによりバーレーンは自治権を取り戻した。だが、今度は共にバーレーン独立を目指していたものの主張となれずホール・ハサンに拠点を移し、ハリーファ家に対して深い恨みを抱いていたジャラーフマ家が海賊行為によりバーレーンを襲撃するなどした。この戦闘は1826年まで続いた。この状況に当時アラビアなどの地域を治めていたイギリス1820年にハリーファ家をバーレーンの正当な指導者とする平和条約を締結させたが、ペルシアにも領有権を与えたため1971年の独立までペルシアは領有権を主張し続けた。

だが、このころのバーレーンにとっての脅威はやはりオマーンだった。オマーンは1816年から1828年にかけて4度の攻撃を仕掛けたが、オマーン側はこの攻撃で多くの損失を負った。その後も第二次サウード王国、ペルシア帝国、オスマン帝国から占領すると脅しを受けたものの、当時の首長であるムハンマド・ビン・ハリーファ・アール・ハリーファ英語版はペルシア帝国、オスマン帝国を支持するふりをした。第二次サウード王国はこれに対し紛争を起こそうとしたが、イギリスが再びバーレーンに介入し、1861年平和友好条約英語版を締結させ、バーレーンはイギリスの同意なしに戦争・海賊行為を行えなくなった。

内政課題

ハリーファ家はレーエンという封建制度を採用し、国民に対して税金を課した。

1828年にオマーンが衰退した後、バーレーン内部で紛争が起こった。この紛争は外国の侵略よりもバーレーンの経済と社会に大きな損害を与え、シーア派が最も大きな被害を受けた。ハリーファ家は初代首長のアフマドが亡くなった後、2つの派閥に分裂した。1つはバーレーン島を拠点とするサルマ―ン・ビン・アフマド首長率いる派閥、もう1つはムハッラク島を拠点とするその弟アブドゥッラー英語版率いる派閥であった。ムハッラクは徐々に独自の部族行政を備え、独立しようとするようになった。1825年にサルマ―ンの子どもであるハリーファ・ビン・サルマ―ンアラビア語版は父の後を継いだ。1834年にハリーファが亡くなり、叔父のアブドゥッラーがバーレーンの唯一の首長となったことで紛争が激化した。

アブドゥッラーの治世(1834年 - 1843年)は紛争が多発し、バーレーンに大きな混乱をもたらした。1835年、アブドゥッラーの息子の一人が率い、反乱を起こしていたカタールとそれを支援するビン・アリー家英語版ブアイナイン家英語版を容赦なく鎮圧した。1842年、彼は甥のムハンマド・ビン・ハリーファ英語版と対立して紛争を起こし、勝利した。だが、敗北したムハンマドはリヤドへ亡命し、サウード王国の支援を受けてズバーラに移動し、そこでジャラーフマ家とビン・アリー家と同盟を結んだ。彼らはマナーマにいるムハンマドの兄アリー・ビン・ハリーファ・アール・ハリーファ()の協力を得てアブドゥッラーを破った。その後アブドゥッラーはダンマームへと亡命し、様々な場所で復権を試みたものの失敗に終わり、最終的にマスカットに移住した故、1849年に亡くなった。

出典

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