パトリック・ヒューム (初代マーチモント伯爵)![]() 初代マーチモント伯爵パトリック・ヒューム(英語: Patrick Hume, 1st Earl of Marchmont PC、1641年1月13日 – 1724年8月2日)は、スコットランド王国の貴族、裁判官。 生涯![]() 初代準男爵パトリック・ヒュームとクリスティーナ・ハミルトン(Christina Hamilton、サー・アレクサンダー・ハミルトンの娘)の息子として、1641年1月13日に生まれ、1648年4月に父が死去すると準男爵位を継承した[1]。スコットランドで教育を受けた後、パリで法律を学び[1]、帰国直後の1665年にスコットランド議会議員に選出された[2]。議会で反カヴェナンター政策に反対し、ロンドンに出向いて国王チャールズ2世に請願したものの1675年に投獄される結果に終わり、途中で一度解放されたがすぐに再び投獄され、最終的には1679年7月17日に釈放された[1]。 その後、ライハウス陰謀事件への関与を疑われ、1684年秋にポルワース教会の家族納骨所に隠れた[1]。冬に医者に扮してロンドンに向かった後、フランスに渡り、ダンケルク、オーステンデ、ブルッヘを経由してブリュッセルに向かい、モンマス公爵に面会しようとしたがかなわず、ロッテルダム、ついでユトレヒトに向かい、そこでチャールズ2世の死を知った[1]。同年のアーガイルの蜂起に参加したが、失敗に終わり、財産も没収されて困窮した[1]。1688年の名誉革命でウィリアム3世とともに帰国、翌年に再びベリックシャー選挙区の議員に就任した[1]。翌年に財産没収を取り消させることに成功、直後にスコットランド枢密院の枢密顧問官に任命され、さらに同年12月20日にポルワース卿に叙された[1]。 1696年5月2日にスコットランド大法官に任命され、1697年4月にマーチモント伯爵に叙された[1]。1702年にスコットランド教会総会への勅使に任命されたものの、直後にウィリアム3世が死去したため総会は中断した[1]。同年にジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの権利放棄法案を提出すると、スコットランド大法官を罷免された[1]。 その後はイングランド王国との合同を支持したが、1707年と1708年のスコットランド貴族代表議員選挙に敗れた[1]。1714年にジョージ1世が即位すると一部の官職に復帰したが、以降政治で大きな役割を果たすことなく1724年8月2日に死去[1]、息子アレクサンダーが爵位を継承した[2]。 家族グリゼル・カー(Grizel Ker)と結婚、下記の子女を儲けた。
脚注
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