ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵)
初代ウェストミンスター公爵ヒュー・ルーパス・グローヴナー(英: Hugh Lupus Grosvenor, 1st Duke of Westminster, KG, PC, JP、1825年10月13日 - 1899年12月22日)は、イギリスの貴族、政治家、馬主。 経歴ベルグレイヴ子爵リチャード・グローヴナー(後の第2代ウェストミンスター侯爵)と、その妻である第2代スタッフォード侯爵ジョージ・ルーソン=ゴア(後の初代サザーランド公爵)の娘レディ・エリザベス・メアリの間に次男としてチェシャー州チェスターのイートン・ホールで生まれた[2]。 兄は既に夭折しており、出生時から継嗣であった。祖父の第2代グローヴナー伯爵ロバートがウェストミンスター侯爵に叙された1831年から父親が2代侯爵となる1845年までは「ベルグレイヴ子爵(Viscount Belgrave)」の、1845年から自身が襲爵する1869年までは「グローヴナー伯爵(Earl Grosvenor)」の儀礼称号で称された。 イートン校を経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジで教育を受ける[3]。1847年にチェスター選挙区から選出されて自由党所属の庶民院議員となった。以降1869年の襲爵まで同選挙区から庶民院議員に選出され続ける[3][4][1]。 1869年10月31日に父の死去により第3代ウェストミンスター侯爵位を継承し[3][4]、貴族院議員に転じた[1]。 1874年2月27日にウェストミンスター公爵に叙された。ヴィクトリア朝においては初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリや第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルも公爵に叙すとの内諭を受けたが、二人は「公爵家の体面を保てる財産がない」として断っている。一方財産に余裕があるヒュー・グローヴナーは公爵位を受けた形であった[5]。 当時、彼はグローヴナー家の私的財産として、ロンドン市内のメイフェア、ベルグラヴィア、ピムリコを抱えるイギリス有数の資産家であった。彼はチェシャーのイートン・ホールを本宅とし、他に例のないほどの金額をかけて再建設させた。彼はまた、当時最も成功した馬主の一人でもあった。 1880年から1885年にかけては第2次グラッドストン内閣において主馬頭を務めた[3][4]。 1899年12月22日に死去。爵位は孫のヒュー・グローヴナーが継承した[4]。 栄典爵位1869年10月31日に父 リチャード・グローヴナーの死去により、以下の爵位を継承した[3][4]。
1874年2月27日に以下の爵位を新規に叙された[3][4]。
勲章
その他競馬ヒュー・グローヴナーはイートン・スタッドを相続し、馬主であると同様にブリーダーとしても成功をおさめた。彼はエプソム・ダービーの優勝馬ベンドア号、三冠馬オーモンド号、二頭目の三冠馬となったフライングフォックス号を所有していた。生産馬としては他に四冠馬セプター号がいる。 アーサー・コナン・ドイルが、私立探偵シャーロック・ホームズシリーズの短編『白銀号事件』で創作したロス大佐のモデルは、ヒュー・グローヴナーであると信じられている。 家族ウェストミンスターは2度結婚している。最初の妻は第2代サザーランド公爵ジョージ・サザーランド=ルーソン=ゴアの五女であるレディ・コンスタンス・ガートルード・サザーランド=ルーソン=ゴアで、1852年4月28日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚した。彼女は母方の従妹にあたる。
コンスタンスと死別した後、第2代チェサム男爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの三女であるオナラブル・キャサリン・キャロライン・キャヴェンディッシュと1882年7月19日にノーフォーク州のホーカム・ホールで結婚した。
脚注
参考文献
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia