ビルマ式社会主義
ビルマ式社会主義(ビルマしきしゃかいしゅぎ)とは、正確には「社会主義へのビルマの道」(ビルマ語: မြန်မာ့နည်းမြန်မာ့ဟန် ဆိုရှယ်လစ်စနစ်; 英語: Burmese Way to Socialism)と呼ばれ、1962年にミャンマーの実権が握ったビルマ連邦革命評議会が標榜した国家イデオロギーである。 背景→「1962年ビルマクーデター」も参照 クーデターを起こして革命評議会が権力を握った直後の1968年3月4日、ネ・ウィンはチッフラインら陸軍心理作戦部のメンバーに、革命評議会の綱領の作成を命じた。その際、ネ・ウィンが強調したのは
だった。ネ・ウィンは、農民、労働者、庶民のため、ひいては国家のために働くことが重要であり、共産主義は労働者を最優先するが、自分たちは国民の大多数を占める農民を最優先すると主張したのだという[1]。3月21日、『ビルマ社会主義へのアプローチ』と題された最初の草稿が完成し、3月23日にネ・ウィンの私邸で披露された。そしてネ・ウィンの意見を採り入れて手直しされ、『革命評議会の政策宣言:ビルマ式社会主義への道を歩もう』と改題されて、4月25日の革命評議会において全会一致で承認された。その後、ヤンゴン内の印刷所に回されたが、情報漏洩を防ぐために印刷工は帰宅を許されなかったのだという。そして4月29日・30日の最終会議で『ビルマ社会主義への道』とまた改題され、正式に承認された[2]。 ただし、1947年5月の憲法草案審議予備会議で、アウンサンがミャンマーの経済政策について「林業、鉱業、電力、鉄道、航空、郵便、電信、電話、放送、外国貿易を国有化し、地主制度を廃止する。その他の生産手段は、できる限り共同組合所有とする」と述べ、1948年憲法では、第23条で「公共の利益のために私有財産を国有化できる」、第30条で「国家がすべての土地の最終所有者である」、第42条で「国家が私的利益を追求しない経済団体に物的支援を与える」など社会主義色が濃い規定があったことからもわかるとおり[3]、革命評議会の社会主義路線は決して唐突なものではなく、『ビルマ社会主義への道』の第14節にも「ビルマの議会制民主主義は、社会主義の目標を見失い、ついには社会主義経済制度と相反する点に達した」とする一文があり、前体制との継続性を示唆していた[4]。 内容『ビルマ社会主義への道』の冒頭では、「人間による人間に対する搾取の廃止」を謳い、次の基本理念では以下のような4つの原則が示されている。
桐生稔は、これを「教条主義的ではなく柔軟な思想であり、マルクス・レーニン主義にもとづいたものではなく、英植民地時代に育まれた反資本的な考え方に、ビルマの民族主義と上座部仏教というビルマの伝統的価値観が加わったもの」と評している[6]。また大野徹は「紛れもなく社会主義の概念を反映したものだが、一方で、社会主義実現の過程では左右両極橋に偏らないように留意するとあり、左翼思想の信奉者は唯物史観に固執し人民大衆に対して専制的になる傾向が強いと批判して、マルクス・レーニン主義を排斥していることから、ソ連、中国、北朝鮮、カンボジア、ベトナム、ラオスなど他の国々の社会主義とも一線を画す」と評している[7]。 実践軍事独裁(1974年以降はBSPP一党独裁)革命評議会は『ビルマ社会主義への道』を忠実に実行する政党として、1962年7月4日、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を設立し、ネウィンが議長となった。1964年3月28日には国家統一法が施行され、BSPP以外の政党・政治団体の活動が禁止された。しかし、BSPPが本格始動するのは1971年6月の第1回党大会からで、それまでは革命評議会が国家の実権を握っていた[8]。革命評議会のメンバーは、ネ・ウィンが隊長を務めていた第4ビルマ・ライフル部隊出身者が多く、「第4ビルマ・ライフル部隊政権」と呼ばれた[9]。 経済の国有化『ビルマ社会主義への道』にもとづき、1963年3月15日、新経済政策が発表され、(1)全経済活動の国有化(2)国家による米の独占的買い取り(3)一切の新規の民間投資の禁止の方針が示された。そして同年2月23日に銀行が国有化されたのを皮切りに、次々と企業が国有化されていき、街中の商店はすべて「人民商店」に鞍替えされた[10]。特にインド系・中国系の企業が狙い撃ちにされ、それは「ビルマ人以外の者への輸入許可の停止」(1962年10月)、「ビルマ人以外の者への銀行融資禁止」(1963年3月)、「外国人医師の禁止」(1963年7月)という一連の措置にも現れていた。結果、多くのインド人・中国人の生計が成り立たなくなり、彼らは「自主的に」ミャンマーを去った[11]。ただし政府が米の公定価格を低く設定したので、米の買い取りは上手くいかず、結局、農民に対する半強制的供出という形が慣行となった。しかし農民は、より利益の大きい闇市場に米を横流しするようになったので、米不足に陥って米の価格が上がり、輸出用の米も不足し政府の外貨準備金も不足するようになった[12]。 非同盟中立外交政府は外国からの干渉・影響をなるべく避けるために、非同盟中立外交政策を取った。シャン州に中国国民党軍(泰緬孤軍)が陣取った際も、国連に救済を求め、中国共産党がビルマ共産党(CPB)を支援し始めた際も、粘り強く中国政府に支援停止を求めた。極端な国有化政策はインドやイギリスとの関係に緊張をもたらしたが、深刻な紛争には至らなかった。東欧諸国や旧ソ連は、ミャンマーが社会主義陣営に加わったと歓迎し、顧問の派遣やミャンマー人留学生の受け入れなどの交流があった。ただ政府は自由主義陣営ともバランスを取り、アメリカとの軍事援助協定は1970年ま続行し、1960年代を通じて日本から戦争賠償金という形で多額の援助を受け続け、その他西ドイツ、そ欧州諸国からも援助を受けた[13]。またビルマの伝統的価値観にそぐわないとされた外国文化は排斥され、1962年3月に出された一連の法律により、競馬、美人コンテスト、音楽、歌、ダンスのコンテストはすべて禁止され、シャン州ではギャンブルが禁止された[14]。さらに外国人の滞在時間は当初24時間に制限され、1969年に72時間に、1971年に7日間に延長された[15]。 破綻→「8888民主化運動」も参照 しかし、急激な社会構造の変化は経済の混乱をもたらした。(1)国家経済から中国人・インド人を追放し、官僚を追放した代わりに国軍将校がその任に就いたものの、経営・管理能力、企業家精神の欠如していたこと(2)外国投資・民間投資を禁止したことにより資本が不足したこと(3)CPBや少数民族武装勢力の反乱により経済活動が阻害されたことにより、かつてはASEAN随一の経済力を誇っていたミャンマー経済は停滞を余儀なくされた[16]。 1962年から1974年までの平均年間経済成長率は2.8%、工業生産力の平均年間成長率は1.1%と低迷。かつてミャンマー最大の輸出品かつ外貨取得手段であった米の輸出は、戦前は年間300万トンだったのに対し、1964年は200万トン、1966年は62万トン、1967年は33万トンと下降の一途を辿り、70年代には農業改革により米の収穫量は増加したものの、輸出量は1985年は85万トン、1986年は73万トン、1987年は43万トンと相変わらず低迷したままだった。物不足と失業は慢性的となり、インフレも拡大した。1987年には国連から後発開発途上国(LLDC)に認定された[17]。 そして1988年、国民の不満が爆発。全国で大規模なデモが発生、国軍がこれを武力で弾圧し、同年9月18日、国軍がクーデターを起こして国家秩序回復評議会(SLORC)が成立。『ビルマ社会主義への道』は放棄され、その26年の歴史に終止符を打った。 資料チッフラインが1962年3月21日に提出した『ビルマ社会主義へのアプローチ』の草稿の要点
ネ・ウィンの意見
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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