ピアノソナタ第1番 (シマノフスキ)
ピアノソナタ第1番 ハ短調 作品8 は、カロル・シマノフスキが1904年に作曲したピアノソナタ。 概要シマノフスキの初期の作品の一つである。作曲当時、シマノフスキは1901年から1904年にかけて在籍していたワルシャワ音楽院でジグムント・ノスコフスキの個人教授を受けていた[1][2]。最初の3楽章は、《9つの前奏曲 作品1》よりも以前から着手していた。第4楽章は当初はロンドだったが、1904年にフーガに変更した[3]。 1907年4月19日に行われた若きポーランドの第2回コンサートで初演された。演者はターラ・ネイガウス[注 1][2]。 また、1910年にはリヴィウで行われたショパン生誕100周年記念コンクールに応募し、第1位を獲得した[1]。ただ、1909年12月にシマノフスキはベルリンの音楽新聞社「楽界信号」が主催する作曲コンクールで自身の《前奏曲とフーガ 嬰ハ短調》が第2位に入賞しており、すでに成功を収めていた[2]。しかしどちらの成功も、シマノフスキには意外なことだった[4]。コンクールの後、クラクフのピヴァルスキ商会[注 2]より初版が出版された[5]。 背景![]() ![]() 当時シマノフスキはポーランド南部の山岳地方の町ザコパネに滞在しており、そこで後に親友となるルービンシュタインとヴィトキェーヴィチに出会う[1]。1904年12月に完成させ、この曲をヴィトケェーヴィチに献呈した[1][3]。 1910年のコンクールの応募の際には、かなりの手直しを行っている[3]。また、シマノフスキの遠い親戚であるイヴァシュキェヴィッチによれば、1917年から1918年にかけて、演奏上の困難さを考慮し一部改作したという[3]。 当時ノスコフスキのもとでシマノフスキとともに学び、若きポーランドの主要な共同創設者であったルドミル・ルジツキは1904年に次のように回想している[1]。 ショパンの後期作品である《ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58》と《チェロソナタ ト短調 作品65》に強く影響を受けている部分も見てとれる[6]。 曲の構成ソナタ形式のアレグロで始まり、アダージョ、メヌエット、トリオと続き、フーガ的なフィナーレを迎えるという、伝統的な4楽章形式を踏襲した作品である[4]。第1楽章の主題を他の楽章で繰り返し再現させることで、後期ロマン派の循環形式的な工夫が凝らされている[3]。 第1楽章主題、以降部ともに4小節構造を墨守するため、やや単調な印象を与える[7]。 第2主題は、メノ・モッソ、アモローソ。第2楽章の主題と関連している[7]。 第2楽章冒頭の主題は第1楽章の第2主題に由来する[7]。 第3楽章
コモド(気楽に)と指示されているように、麗らかな曲である[3]。 ロ長調のトリオは第1楽章の第2主題と関連している[7]。ピアニストの森安芳樹は、和声に見られるマックス・レーガーの影響を指摘している[7]。 第4楽章序奏と3声の二重フーガ。ハ短調。序奏は21小節間にわたって続く[8]。 フーガの主題は、第1楽章の主題に由来している[8]。 フーガ主題を基に曲は高揚し、壮麗に幕を閉じる[3]。 主な録音
脚注注釈出典参考文献書籍
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