ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K. 466 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1785年に作曲したピアノ協奏曲であり、モーツァルトが初めて手掛けた短調の協奏曲である。 モーツァルトのピアノ協奏曲の中でも特に人気のある作品であり、とりわけルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが大変気に入っていた作品として知られている。 概要![]()
モーツァルトは短調のピアノ協奏曲を2曲(もう1曲は第24番 ハ短調(K. 491))作曲しているが、華やかさが求められた当時の協奏曲とはうってかわって、それまでの彼の協奏曲には見られない、激しい情熱の表出が見られる。暗く不安げな旋律、劇的な展開などが特徴である。 1781年にモーツァルトは、雇い主であったザルツブルク大司教のヒエロニュムス・コロレド伯と衝突したことにより、生まれ故郷のザルツブルクを追い出され、ウィーンでフリーの音楽家として生活することになった。彼にとってここでの生活の糧は、裕福な貴族や社交界を対象にした演奏会であった。彼はピアノの名手ということもあり、ウィーン時代に第11番(K. 413)以降の17曲のピアノ協奏曲を書き上げ、特にこの第20番が作曲された1784年から1786年までは、音楽家として作曲・演奏ともに円熟味が増し、またそれらを発表する良い機会も得て順風満帆の時期であった。 1785年2月10日に完成された第20番は、翌日にウィーン市の集会所「メールグルーベ」で行われた予約演奏会で初演された。しかし、初演の前日になってもまだパート譜の写譜が間に合っていない状態であり、初演当日に父レオポルト・モーツァルトがウィーンに到着した時にもまだ写譜師が写譜をしており、特に第3楽章は通し弾きすら出来ていない状態であった。だが、こんな土壇場で完成した曲にもかかわらず、演奏会を聴いた父レオポルトはモーツァルトの姉ナンネルに宛てた手紙の中で、
と報告している。また、この演奏会にはフランツ・ヨーゼフ・ハイドンも訪れていたと考えられ、この手紙の中でレオポルトは、演奏会の翌日にハイドンと会ったことも報告しており、
と記している(なお、ここで言及されている計6曲の弦楽四重奏曲というのが、有名な『ハイドン・セット』のことである)。 この第20番は19世紀を通じて広く愛され演奏された数少ない協奏曲の1つであり、1842年9月4日には、ザルツブルクのミヒャエル広場(現・モーツァルト広場)にモーツァルトの記念像(ミュンヘンの彫刻家ルートヴィヒ・シュヴァーンターラー作の彫刻を基に、同じくミュンヘンの鋳造家ヨハン・シュティーゲルマイアーが鋳造したもの)が立てられた際に、除幕式で行われた記念音楽祭でモーツァルトの息子フランツ・クサーヴァー(モーツァルト2世)が本作を演奏している[2]。 モーツァルトの弟子のヨハン・ネポムク・フンメルは、本作のカデンツァを作曲すると共に、ピアノ・フルート・ヴァイオリン・チェロ用の編曲を残しており、白神典子らが録音している。 楽器編成
曲の構成全3楽章、演奏所要時間は約30分。
カデンツァについて![]() 第1楽章の365小節目と第3楽章の345小節目にはカデンツァの指定がある。このピアノ協奏曲について、残念ながら作曲者自身によるカデンツァは残されていないが、歴代の作曲家や演奏家たちがこの協奏曲にカデンツァを残しており、下記がその例である。
現代において特に有名なのは、ベートーヴェンとブラームスによるカデンツァである。この協奏曲において、ベートーヴェンによるカデンツァは定番となっており、演奏会や録音で最もよく演奏されている(演奏会や音源などで特に表記がない場合は、ベートーヴェンによるカデンツァで弾かれることがほとんどである)。 脚注外部リンク
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