ピエール・ヴィタル・ジョルジュ・ベルジェ (Pierre Vital Georges Bergé、[pjɛʁ vital ʒɔʁʒ bɛʁʒe] 、1930年 11月14日 - 2017年 9月8日 )は、フランス の実業家である。服飾デザイナー・イヴ・サン=ローラン の長期にわたるビジネスパートナー (英語版 ) であり、同名の服飾ブランド「イヴ・サンローラン 」を共同で設立した。イヴ・サン=ローランとは、一時は私的にもパートナーだった[ 1] 。
若年期と教育
ベルジェは1930年11月14日にポワトゥー=シャラント地域圏 シャラント=マリティーム県 のオレロン島 にあるサン=ピエール=ドレロン (英語版 ) で生まれた[ 2] 。母クリスティーヌは、モンテッソーリ教育 を採用する進歩的な教師だった[ 3] 。父は税務署職員だった[ 3] 。ラ・ロシェル のエウジェン・フロメンタン高校に通った後、パリ に移った。パリに到着した日、ベルジェがシャンゼリゼ通り を歩いていたところ、詩人のジャック・プレヴェール がアパートの窓からベルジェのすぐそばに落ちたということがあった[ 4] [ 5] 。
ラ・ロシェルにいた18歳の時、私は家族から離れる決意をした。パリに着いた日、私がシャンゼリゼ通りを歩いていると、突然フランス窓から男が飛び出してくるのが見えた。男は空中を落ち、商店の看板を掴んで、私の足元に倒れ込んだ。彼は大量に出血していた。救急車が到着し、彼はマルモッタン病院に運ばれた。翌日、新聞でそれがジャック・プレヴェールだったことを知った。私がパリに到着した日に詩人が頭上に落ちてきたのは、何かの予兆だったのだろうと常に思っていた。
—ピエール・ベルジェ
キャリア
パリで暮らし始めた若い頃、ベルジェは左翼組織に関与し、左派雑誌の編集にも携わったが、この雑誌は短命に終わった。その中で、アルベール・カミュ やジャン=ポール・サルトル と出会った[ 6] 。
ベルジェは若い頃の画家ベルナール・ビュフェ と出会って私的なパートナーとなり、その活動を支援した[ 7] [ 8] [ 9] 。
2010年11月2日、ベルジェはマチュー・ピガッセ (英語版 ) 、グザビエ・ニール (英語版 ) と共にフランスの大手新聞『ル・モンド 』の株式を取得した[ 10] 。
イヴ・サンローラン
ベルジェは1958年にイヴ・サン=ローラン と出会い、恋愛関係となった。2人は1961年にオートクチュール メゾン「イヴ・サンローラン 」を共同で設立した。2人の恋愛関係は1976年に終了したが、それ以降も生涯にわたり友人兼ビジネスパートナーとしての関係を続けた[ 11] [ 12] 。
1992年、イヴ・サン=ローラン社が業績不振の報告書を発表する直前にベルジェは株式を売却した。1996年、この取引がインサイダー取引 と認定され、100万フラン の罰金を科せられた[ 13] 。
ベルジェは、2002年のイヴ・サン=ローラン引退に伴いオートクチュールラインが閉鎖されるまで、イヴ・サンローラン・オートクチュールのCEO を務めた。ベルジェはサンローラン・クチュールの評判と遺産を守り、投資を続け、「イヴ・サンローランのDean(長老、首席司祭)」と呼ばれていた[ 14] 。
オートクチュールラインの閉鎖後、ベルジェはピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団 (フランス語版 ) の会長に就任した[ 15] 。
私生活
人間関係
ベルジェは1950年から1950年まで画家ベルナール・ビュフェ と同棲していた[ 16] 。1958年、ベルジェがイヴ・サン=ローランと付き合い始めたため、ビュフェとの関係は決裂した[ 17] 。
1960年代には、イヴ・サンローランのモデルを務めていたヴィクトワール・ドゥトルロウ (英語版 ) と3年間にわたり断続的に交際していた[ 18] 。このとき、ドゥトルロウはサン=ローランとも交際しており、ベルジェとサン=ローランもまだ恋愛関係にあったため、三人婚 (ménage à trois)の状態にあった[ 19] 。
前述のように、ベルジェは1958年からイヴ・サン=ローランと付き合い始め、1976年に恋愛関係を解消したが、その後も生涯にわたり友人兼ビジネスパートナーとしての関係を継続した[ 12] 。『ニューヨーク・タイムズ 』紙によれば、2008年にサン=ローランが死去する数日前、ベルジェとサン=ローランは、フランスにおける同性間のシビル・ユニオン である民事連帯契約 (PACS)を結んだ[ 20] 。サン=ローランが脳腫瘍と診断されたとき、ベルジェと医師は相談して、死期が近いことをサン=ローランには知らせないと決断した。ベルジェは、「イヴにはそれを受け入れる強さはないと思う」と述べた[ 21] 。ベルジェはサン=ローランの追悼式の弔辞で「あなたの名前で発表した最初のコレクションと、その終わりに流した涙を今でも覚えています。あれから年月が経ちました。ああ、なんと早いことか。破局は避けられませんでしたが、愛は決して止まりませんでした」と述べた[ 1] 。2010年、ベルジェは"Lettres à Yves "(イヴへの手紙)[ 注釈 1] を刊行した[ 2] 。
2017年3月31日、ベルジェはパリで、ランドスケープアーキテクトのマディソン・コックス (フランス語版 ) と結婚した[ 6] [ 16] 。
政治姿勢
2012年の婚姻平等集会に参加するベルジェ
ベルジェは社会自由主義 者であり政治的に保守派であるとみなされている。[ 22] 。1970年代にはヴァレリー・ジスカール・デスタン に投票していた[ 22] 。
1988年にベルジェが創刊した雑誌『グローブ (フランス語版 ) 』は、同年の大統領選挙 で候補者だったフランソワ・ミッテラン 元大統領を支持し[ 2] 、ベルジェはミッテランの全ての選挙集会に参加した。ただし、1981年の大統領選挙 では、ベルジェはミッテランに投票していなかった[ 23] 。
自らも同性愛者 であるベルジェは同性愛者の権利 の支持者であり、エイズ 対策組織「ACT UP (英語版 ) 」を支援し、ゲイ雑誌『テトゥ (英語版 ) 』を買収した。ゲイ専門チャンネルである「ピンクTV (英語版 ) 」にも出資していたが、後に撤退した。1994年、リネ・ルノー (英語版 ) とともにエイズ予防啓発活動「Sidaction (英語版 ) 」の設立に関与し、1996年から死去までは会長を務めた[ 24] 。
2007年の大統領選挙 でベルジェはセゴレーヌ・ロワイヤル を支持した[ 25] 。より一般的な言い方をすれば、ベルジェはロワイヤルのスポンサーとみなされていた。例えば、2008年末にロワイヤルが社会党 第一書記(党首)を退任してから2011年3月まで、ロワイヤルの事務所の賃料はベルジェが支払っていた[ 26] 。
慈善活動と文化的関心
ベルジェはフランソワ・ミッテラン研究所 (フランス語版 ) 友の会の会長を務めた。1993年には、自らが創刊し1992年に廃刊となっていた雑誌『グローブ』の後継である『グローブ・エブド』(Globe Hebdo )の創刊に協力した[ 27] 。
ベルジェはオペラ の熱心な愛好家であり、支援者でもあった。1988年8月には、ミッテラン大統領からオペラ・バスティーユ (新オペラ座)の館長に任命された。1994年にこの職を辞した後、パリ国立オペラ の名誉会長となった。また、19世紀と20世紀の音楽に関する広範なコレクションを所蔵する非営利資料館であるマーラー音楽資料館 (英語版 ) の館長を務めた[ 7] 。その他、ジャン・コクトー の全作品の知的財産を独占所有するジャン・コクトー委員会の会長も務めた[ 28] 。
ベルジェはユネスコ の活動も支援した。1992年7月、ベルジェはユネスコ親善大使 に任命された[ 29] 。
ベルジェはモロッコ のマラケシュ に、モロッコ各地から集められたベルベル人 の遺物を収蔵するベルベル博物館を設立した[ 30] [ 31] 。
論争
ベルジェは、フランスのテレソン (フランス語版 ) について、寄付金をすぐに使わずに不動産投資を行っていると主張し、「フランスの人々の善意をポピュリズム的な手法で搾取している」と非難した[ 32] 。フランスのテレソンを主催するフランス・ミオパチー協会 (フランス語版 ) (AFM)は、ベルジェの主張を否定した[ 33] 。ベルジェが同様の主張を繰り返し行ったことから、AFMは2010年2月に名誉棄損でベルジェを提訴した[ 34] 。2013年6月28日、第17パリ刑事裁判所は、ベルジェに罰金1700ユーロを科した[ 35] 。
2013年3月16日、ベルジェはTwitterで、「"#laManifPourTous"のせいでシャンゼリゼ通りで爆弾が爆発しても、私は泣かない」というメッセージをリツイートした。ベルジェがこのメッセージをリツイートしたことは大きな反発を招き、名指しで批判されたLa Manif pour tous (英語版 ) [ 注釈 2] は、これはテロを扇動するものだと非難した[ 36] 。同年6月21日、ベルジェは出演したテレビ番組『ル・プティ・ジュルナル (英語版 ) 』においてこのメッセージに触れ、自分は「非暴力」であると主張した[ 37] 。
同性婚 に関する議論において、ベルジェは代理母出産 を支持し、「子供のために子宮を貸すのは、工場で働くために腕を貸すのと何が違うのか?」と発言して、同性婚支持者からも激しい非難を受けた[ 38] 。
2013年9月26日、ベルジェはフランスにおける全てのキリスト教の祝日 の廃止に賛成すると述べた[ 39] 。
2016年3月、ベルジェはフランスのラジオ局ウループ1 (英語版 ) のインタビューで、モデストファッション について次のように述べた。「私は憤慨した。クリエイターはイスラムファッションに一切関わるべきではない。デザイナーは女性を美しくし、自由を与えるために存在する。女性を隠蔽し、隠れて生活させるという忌まわしい行為を強要するこの独裁体制と協力するためではない。ある意味では彼らは共犯者であり、すべては金のためである。金よりも原則が優先されるべきだ[ 40] 」
美術コレクション
ベルジェはサン=ローランと共同で美術コレクションを有していたが、サン=ローランの死後の2009年2月にベルジェによって売却された。その中には、アロー戦争 中に北京の円明園 から略奪されたとされる十二生肖獣首銅像 の頭部のうちの鼠と兔の2点が含まれていた。中華人民共和国 政府は返還を要求したが、ベルジェはこれを拒否し、「彼らが人権 を尊重し、チベット 人に自由を与え、ダライ・ラマ を自国領土に受け入れることを宣言しさえすれば、私はこれらを即時に返還する」と述べた。ベルジェ自身が「政治的脅迫」と認めるこの発言は、中国国内で批判を受けた[ 41] 。オークションでは、中国の実業家・美術品収集家で中国海外遺失文化遺産救出特別基金の顧問の蔡銘超 (中国語版 ) が落札した上で「道義的・愛国的背景」を理由に代金の支払いを拒否したため、ベルジェが保有を続けることとなった。2013年6月29日、イヴ・サンローランのブランドを買収したケリング のCEOフランソワ・アンリ・ピノー がベルジェと交渉して譲渡を受け、2点を北京の中国国家博物館 に引き渡した[ 42] 。
闘病と死去
2009年11月、ベルジェはミオパチー を患っていることを発表した[ 43] 。
ベルジェは2017年9月8日、ミオパチーによりブーシュ=デュ=ローヌ県 サン=レミ=ド=プロヴァンス で死去した。86歳だった[ 6] [ 44] 。
栄誉
ベルジェはオラニエ=ナッサウ勲章 (英語版 ) オフィシエ、国家功労勲章 オフィシエ、芸術文化勲章 コマンドゥール、レジオンドヌール勲章 コマンドゥールを受章している[ 8] 。
大衆文化において
2010年のドキュメンタリー映画『イヴ・サンローラン 』にはベルジェ本人が登場し、ナレーションも行っている。
2014年にはイヴ・サン=ローランの伝記映画が2作公開された。ジャリル・レスペール (フランス語版 ) 監督、ピエール・ニネ 主演の映画『イヴ・サンローラン 』ではギヨーム・ガリエンヌ が、ベルトラン・ボネロ 監督、ギャスパー・ウリエル 主演の映画『SAINT LAURENT/サンローラン 』ではジェレミー・レニエ がベルジェの役を演じた。前者には、ベルジェが会長を務めるピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団が全面的に協力し、所蔵するサン=ローランの衣装や各種の素材を撮影のために提供した[ 45] 。
関連項目
外部リンク
脚注
注釈
^ 日本語訳『イヴ・サンローランへの手紙』川島ルミ子 訳、2011年、中央公論新社
^ 「全ての人のための抗議運動」。反同性婚、反LGBTQ 、反ジェンダーを主張するフランスの政治運動。
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