フランソワ=オーギュスト・ビアール
フランソワ=オーギュスト・ビアール(François-Auguste Biard、1799年6月29日 - 1882年6月20日)はフランスの画家、探検家である。北極探検に参加し、アマゾンを旅し、ドラマチックな題材の絵画を描いた。 略歴リヨンで生まれた。リヨン国立高等美術学校で、ピエール・レヴォワル(Pierre Révoil)やフルーリ=フランソワ・リシャール(Fleury-Francois Richard)に学んだ。イタリア、ギリシャ、中東を旅し、1824年にパリの展覧会に出展するようになった。1827年には再び、マルタ、キプロス、エジプトを旅した。中東などの旅先の風俗や戦場場面も描いた。1838年にレジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受勲した[1]。 1838年に北極探検家、ジョセフ・ポール・ガイマールが率いるルシェルシュ号(La Recherche)によるラップランド、スピッツベルゲン島、フェロー諸島への探検航海に参加した[2]。この航海には画家としてビアールとバルテルミー・ローヴェルニュ(Barthélemy Lauvergne:1805-1871)が参加し、1839年から1840年まで、フィンランド、ロシアを航海した。この航海にはビアールの婚約者で作家のレオニー・ドーネ(Léonie d’Aunet:1820-1879)も参加し[3]、ドーネは北極探検に参加した最初の女性となった。 ビアールはこの探検航海の探検記の共著者となり、北極探検を題材にした絵画を描くことになった。 1840年にレオニー・ドーネと結婚したが、この結婚は1845年にレオニーと有名な作家、ヴィクトル・ユーゴーとの姦通事件で、1855年に離婚することで終わった[4]。 1858年頃はブラジルに2年間滞在し、ブラジル皇帝ペドロ2世にもとで働いた。リオデジャネイロを拠点に、周辺地域やアマゾン河流域に調査に入った。早くからインディオの人々を描いた画家の一人となった。皇帝からはブラジルの美術アカデミーで教授になることを望まれたが、好きな旅を続けるために断った[3]。フランスに帰国する前に、北アメリカを旅し、自らが反対する奴隷制度に関係する絵画を描いた。1862年に180点の版画を含むブラジルの旅行記を出版した。 作品
脚注
参考文献
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