ブラガンサ=コブルゴ家
ブラガンサ=サクセ=コブルゴ・イ・ゴータ家(ポルトガル語:Bragança-Saxe-Coburgo e Gota)、略称ブラガンサ=コブルゴ家(Bragança-Coburgo)は、ザクセン=コーブルク=ゴータ家の分枝(コーブルク=コハーリ家)の一つで、1853年から1910年の王制廃止までポルトガル王国を統治した家系。 名称についてブラガンサ=コブルゴ家という呼称は、主に非ポルトガル人の歴史学者や系図学者に広く普及しているものであり、ポルトガルで一般的に使われることも、ブラガンサ=コブルゴ家がポルトガルを統治していた時代に使われたこともない。 ブラガンサ=コブルゴ家の4代の王は全てポルトガル女王マリア2世とその王配フェルナンド2世(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナント)の子孫である。 彼らは父方から見ればヴェッティン家の成員であるものの、ブラガンサの家名とそれに伴う称号を名乗り続け、「ブラガンサ=サクセ=コブルゴ・イ・ゴータ」という姓は名乗らなかった。 歴史ポルトガル最後の王家であるブラガンサ=コブルゴ家は、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナントが1836年4月9日にポルトガル女王マリア2世と結婚したことで成立した。王家の人々は「ポルトガル王子(王女)ならびにザクセン公爵(公爵夫人)」の称号を有していた。1853年11月15日にマリア2世女王が崩御すると、その長男ペドロ5世がブラガンサ=コブルゴ家初代の王として即位した。 同王家は1910年10月5日革命が起きてマヌエル2世が退位し、ポルトガル第一共和政が成立するまでポルトガルを統治した。マヌエル2世が亡命し、1932年7月2日に没すると、ブラガンサ=コブルゴ家は断絶した。 死の直前、マヌエル2世は1834年以来ポルトガル王位を請求し、ブラガンサ=コブルゴ家に敵対してきたブラガンサ家のミゲリスタ王位請求者(ミゲル1世の直系)と和解した。このため、マヌエル2世の後継者はミゲリスタ系のブラガンサ公ドゥアルテ・ヌノとなった。 現在、ブラジル皇帝ペドロ2世(マリア2世の弟)の次女レオポルディナとその夫のザクセン=コーブルク=ゴータ公子ルートヴィヒ・アウグスト(フェルナンド2世の甥)の孫娘テレジア・クリスティアーネの子孫が、ブラジル皇帝家の一員として、紛らわしい家名であるがサクセ=コブルゴ・イ・ブラガンサ家を名乗っている。 歴代ポルトガル王ブラガンサ=コブルゴ家のポルトガル王は、以下の通りである。
系図
脚注参考文献関連項目 |
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