ブリタニア列王史
![]() 『ブリタニア列王史』(ブリタニアれつおうし、ブリタニア列王伝、ラテン語: Historia Regum Britanniae)は、1136年頃にジェフリー・オブ・モンマスがラテン語で書いたブリテン(グレートブリテン島)に関する偽史書。ホメーロスの『イーリアス』に登場するトロイア人たちの子孫がブリテン国家を建設するところから、7世紀のアングロ・サクソン人によるブリテン支配までの、2000年間のブリトン人王たちの生涯を年代順に物語っている。「アーサー王物語」など「ブルターニュもの」の核となっている。 歴史書としての独立した価値はない。ガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍によるブリタンニア侵攻などを描いた部分は、その時代の歴史で補強することも可能だが、ジェフリーの記録は甚だ不正確である。しかし、中世文学としての価値はある。レイア(リア王)と3人の娘たちの話のわかっている限りで最古のヴァージョンがこれに含まれ、また、非ウェールズ語圏にアーサー王伝説を紹介した。 材源ジェフリーは『ブリタニア列王史』を、オックスフォード助祭長ウォルターから貰った「ブリテン人の言葉で書かれたかなり古代の本」をラテン語に翻訳したと主張したが、その話を真に受ける研究者はほとんどいない[2]。書かれていることのほとんどはギルダスが6世紀に書いた『ブリトン人の没落』や8世紀、ベーダの『イングランド教会史』、9世紀のネンニウス作とされる『ブリトン人の歴史』、10世紀の『カンブリア年代記』、中世ウェールズの『 Genealogies』と王の一覧、タリエシンの詩、ウェールズの民話『キルッフとオルウェン』、中世ウェールズの聖人伝のいくつかを材源とし[2]、ジェフリーの想像力で拡大させ、繋がりのある物語にしたものである。 影響ジェフリーのこの書は、ブリテンの多くの伝説・文学、ウェールズの吟遊詩人(Bard)に基づいている。 中世盛期にとても人気で、ニューバラのウィリアム(William of Newburgh)やウェールズのジェラルド(Gerald of Wales)らの批判があったにもかかわらず、アングロサクソン時代とそれ以前のブリテン史観に革命をもたらした。とくにマーリンの予言は後の時代にさかんに引かれた。例を挙げると、たとえば、エドワード1世とその後継者たちの時代、イングランドのスコットランドへの影響について、双方がそれを利用した。 『ブリタニア列王史』は1155年、ウァースによってアングロ=ノルマン語(アングロ・フランス語)韻文に翻訳され(『ブリュ物語』)、13世紀初期にはラヤモン(Layamon)が中英語韻文に(『ブルート(Brut)』)、13世紀の終わりまでには異なる3つのウェールズ語散文に、それぞれ翻訳された[3]。ウェールズ語散文訳の1つは俗に『Brut Tysilio』と呼ばれ、1917年、考古学者Flinders Petrieによって逆にジェフリーが翻訳した古代のブリテンの本であると提起した[4]が、『Brut Tysilio』自体にはオックスフォードのウォルターが昔ウェールズ語からラテン語に翻訳したものに基づいてラテン語から翻訳したものだと書いてある[5] しかし長きにわたって、『ブリタニア列王史』の内容は史実と受け取られ、16世紀にはラファエル・ホリンシェッドの『年代記(Chronicles)』に内容のほとんどが取り込まれた。 現代の歴史学者たちは『ブリタニア列王史』を、いくらかは中に事実も書かれているが、フィクションだと見なしている。ジョン・モリスはその著書『アーサーの時代(The Age of Arthur)』の中で、この本を「意図的な冗談」と呼んだが、その意見はオックスフォード助祭長ウォルターのことを1世紀後の風刺作家ウォルター・マップ(Walter Map)と誤認したことに基づいている[6]。 大衆文化への影響は今なお続いていて、たとえば、メアリー・ステュアート(Mary Stewart)によるマーリンの小説、映画『エクスカリバー/聖剣伝説(Merlin)』では『ブリタニア列王史』は重要な要素を占めている。 写本の伝統とテキスト史『ブリタニア列王史』の中世の写本は215冊が現存している。その多数は12世紀末までに写されたものである。古い写本には多くのテキストの相違が見つかる(たとえば俗に「第一の相違」とか)。それらは3つあると考えられる序文と特定のエピソードの有無である。特定の相違は元にした写本に「作者が」追加したためと思われるが、多くは初期のテキストの改訂、追加、編集を反映しているものと思われる。 これらの相違の謎を解いて、ジェフリーの書いた原文をつきとめるのは非常に時間がかかり、また複雑で、最近になって、ようやくテキストをめぐる困難さの範囲がわかった程度である。 内容『ブリタニア列王史』は、(ローマ人によれば)トロイア戦争後イタリアに定住したトロイア人のアエネアスから始まる。その曾孫ブルータスは追放・放浪の後、女神ディアナの指示で西の海の島に定住し、自分の名をとってその島を「ブリテン」と名付けた。 以後、話は年代順にブリテンの王を語ってゆく。なお、特記ない限り、伝説上の人物である。
脚注
参考文献
日本語訳テキスト
外部リンク
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