ブルース・チェン
ブルース・カストロ・チェン(Bruce Kastulo Chen, 1977年6月19日 - )は、パナマ共和国パナマ県パナマ市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 経歴プロ入りとブレーブス時代1993年7月2日にアトランタ・ブレーブスと契約。 1994年、傘下のルーキー級ガルフ・コーストリーグ・ブレーブスでプロデビュー。9試合に登板し、1勝4敗1セーブ・防御率3.80だった。 1995年はルーキー級ダンビル・ブレーブスで14試合に登板し、4勝4敗・防御率3.97だった。 1996年はA-級ユージーン・エメラルズで11試合に登板し、4勝1敗・防御率2.27だった。 1997年はA級メイコン・ブレーブスで28試合に登板し、12勝7敗・防御率3.51だった。 1998年はAA級グリーンビル・ブレーブスとAAA級リッチモンド・ブレーブスでプレー。AA級グリーンビルでは24試合に登板し、13勝7敗・防御率3.29だった。9月7日のニューヨーク・メッツ戦で先発起用されメジャーデビュー。3回を投げ、6安打(2本塁打)4失点2四球と結果を残せず降板。勝ち負けは付かなかった。9月12日のフロリダ・マーリンズ戦では6.1回を6安打2失点7奪三振に抑え、メジャー初勝利を挙げた。この年は4試合に登板し、2勝0敗・防御率3.98だった。 1999年はAAA級リッチモンドで開幕を迎え、5月にメジャーへ昇格。8月7日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦からリリーフへ転向した。16試合に登板し、2勝2敗・防御率5.47だった。 2000年はリリーフに専念し、22試合に登板。4勝0敗・防御率2.50だった。 フィリーズ時代2000年7月12日にアンディ・アシュビーとのトレードでジミー・オスティングと共にフィラデルフィア・フィリーズへ移籍。移籍後は先発に復帰し、15試合に登板。3勝4敗・防御率3.63だった。 2001年は開幕ロースター入りし、16試合に登板。4勝5敗・防御率5.00と数字を残せず、7月6日にAA級レディング・フィリーズへ降格した。 メッツ時代2001年7月27日に、デニス・クックおよびターク・ウェンデルとのトレードで、アダム・ウォーカーと共にメッツへ移籍。移籍後は11試合に登板し、3勝2敗・防御率4.68だった。 2002年は開幕ロースター入りし、リリーフとして1試合に登板した。 エクスポズ時代2002年4月5日にフィル・セイベルおよびマット・ワトソン、スコット・ストリックランドとのトレードで、後日発表選手とともにモントリオール・エクスポズへ移籍(後日発表選手は、ソール・リベラ、ディッキー・ゴンザレス、ルイス・フィゲロア)。移籍後は15試合に登板(先発は5度の登板)し、2勝3敗・防御率6.99だった。 レッズ時代2002年6月14日にジム・ブラウワーとのトレードでシンシナティ・レッズへ移籍[1]。39試合に登板し、0勝2敗・防御率4.31だった。 2003年3月10日に放出された。 アストロズ時代2003年3月14日にヒューストン・アストロズとマイナー契約を結んだ[2]。開幕ロースター入りして11試合に登板し、0勝0敗・防御率6.00だった。5月3日にDFAとなった[3]。 レッドソックス時代2003年5月7日にウェイバー公示を経てボストン・レッドソックスへ移籍した[4]。5月9日にメジャーへ昇格したが、5試合に登板し、0勝1敗・防御率5.11と結果を残せず、6月1日にDFAとなり[5]、6月5日にAAA級ポータケット・レッドソックスへ降格した。オフの10月3日にFAとなった。 ブルージェイズ傘下時代2003年11月26日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んだ[6]。 2004年はAAA級シラキュース・チーフスで開幕を迎え、3試合に登板し、0勝1敗・防御率8.71だった。 オリオールズ時代2004年5月1日に金銭トレードでボルチモア・オリオールズへ移籍。移籍後はAAA級オタワ・リンクスでプレーし、8月25日にメジャー契約を結んだ[7]。昇格後は8試合に登板し、2勝1敗、防御率3.02だった。 2005年は開幕ロースター入りし[8]、34試合に登板。新たにチェンジアップを習得し、投球に幅が広がったこともあって、メジャー8年目で自身初の二桁勝利、また自己最多となる13勝をマーク。自身2度目の完投勝利を挙げ、197.1投球回と133奪三振も自己最多と飛躍の年となった。 2006年1月17日にオリオールズと1年契約に合意[9]。開幕前の3月に開催された第1回WBCのパナマ代表に選出された[10]。 シーズンでは、エリック・ベダードやロドリゴ・ロペスらと共に、開幕から先発投手としてプレーした。しかし、制球難に陥り、6月頭に先発ローテーションを外され、中継ぎとしてプレーすることとなった。オフの10月31日にFAとなった。 レンジャーズ時代2007年2月6日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約んだ[11]。4月1日にメジャー契約を結んだ[12]。昇格後は5試合に登板したが、防御率7.20と乱調。4月21日にDFAとなり[13]、4月28日にAAA級オクラホマ・レッドホークスに降格した。降格後はAAA級オクラホマで4試合に登板し、1勝1敗・防御率5.62だった。オフの10月15日にFAとなった。また、この年にトミー・ジョン手術を受け[14]、その影響で2008年はどの球団にも所属せず、リハビリに充てていた。 ロイヤルズ時代2009年3月に第2回WBCのパナマ代表に選出され[15]、2大会連続2度目の選出を果たした。同大会では、初戦のプエルトリコ戦に先発するも4回2失点で負け投手となった。 シーズンでは3月1日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ[16]。AAA級オマハ・ロイヤルズで開幕を迎え、6月26日にロイヤルズとメジャー契約を結んだ[17]。昇格後は17試合に登板し、1勝6敗、防御率5.78だった。オフの11月6日にFAとなったが、12月11日にマイナー契約で再契約した[18]。 2010年はAAA級オマハで開幕を迎えた。4月23日にロイヤルズとメジャー契約を結んだ。この年は4年ぶりの二桁勝利となる12勝(7敗)を挙げ、防御率4.17だった。オフの11月5日にFAとなった。 2011年1月15日にロイヤルズと1年契約で再契約した。開幕ロースター入りした。5月10日に腰の故障で15日間の故障者リスト入りし、6月24日に復帰。約1ヶ月間離脱していたが、25試合に登板し、2年連続の二桁勝利となる12勝(8敗)を挙げ、防御率は3.77だった。オフの10月30日にFAとなったが、11月23日に総額900万ドル(出来高を含めると最大で総額1100万ドル)の2年契約でロイヤルズと再契約した[19]。 2012年は開幕投手を務め、34試合に登板(34試合の先発登板はリーグトップ)。11勝14敗・防御率5.07と前年に比べ成績は悪かったが、3年連続の二桁勝利を挙げた。 2013年はシーズン開幕前の3月に開催された第3回WBCの中国代表に参加することを目指したが、祖父母が中国出身である証明書を揃えることができなかったため、参加資格を満たせず不参加となった。レギュラーシーズンの開幕は中継ぎとして迎え、7月12日のクリーブランド・インディアンス戦から先発に復帰。34試合に登板し、9勝4敗・防御率3.27だった。オフの10月31日にFAとなった。 2014年2月1日にロイヤルズと325万ドルの1年契約(2015年のオプション付き)[20]で再契約した[21]。開幕ロースター入りし、4試合に登板したが、5月2日に椎間板ヘルニアで15日間の故障者リスト入りした[22]。9月5日に放出された[23]。この年のレギュラーシーズンでは、7試合の先発登板を含む計13試合に登板したが、2勝4敗・防御率7.45で負け越しと振るわなかった。 インディアンス時代2015年2月16日にインディアンスとマイナー契約を結ぶ事で合意した[24]。開幕を傘下のAAA級コロンバス・クリッパーズで迎えた。5月9日にメジャー昇格[25]。だが、2試合に先発して防御率12.79と振るわず、16日にDFAとなり、18日に現役引退を表明した。 現役引退後現役引退後はインディアンスの育成部門に携わっている[26]。 2016年12月に第4回WBCの中国代表に参加するため、投球練習を再開[26]。 2017年3月4日に行われたオリックス・バファローズとの代表強化試合で引退後初の実戦での登板を果たした。WBC本戦では1次リーグのキューバ戦に先発登板し、2回2/3を無失点で抑えた。このキューバ戦では紐履を履いて登板し、話題となった[27]。 詳細情報年度別投手成績
背番号
代表歴
脚注
関連項目外部リンク
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