プブリウス・テレンティウス・アフェル
プブリウス・テレンティウス・アフェル(ラテン語: Publius Terentius Afer, 英語: Terence, 紀元前185年 - 紀元前159年)は共和政ローマの劇作家。テレンティウスの喜劇が最初に上演されたのは紀元前166年から紀元前160年頃である。若くして亡くなったが、その場所はおそらくギリシア、もしくはローマへ戻る途上だろうと言われている。 スエトニウスによれば、カルタゴ生まれのテレンティウスは、元老院議員テレンティウス・ルカヌスによって奴隷としてローマに連れてこられたが、肉体的な美しさと頭の良さを買われ、ルカヌスはテレンティウスに教育を施し、奴隷から解放したとされる[1]。「テレンティウス」というノーメン(氏族名。古代ローマの人名参照)は、テレンティウス・ルカヌスからつけられたものである。テレンティウスの書いた6つの戯曲はすべて現存している。 生涯テレンティウスの生涯について、スエトニウスの残した短い伝記があるが、彼が参照したいくつかの資料においてすら、様々な説が入り乱れている[2]。はっきりしているのは、彼の作品がいつ上演されたかということだけである[3]。 生年月日についても諸説あり、アエリウス・ドナトゥスは未完の『Commentum Terenti(テレンティウス注釈)』の中で、テレンティウスの生年を紀元前185年としている[4]。一方、フェネステラ(en:Fenestella)はそれより10年早い紀元前195年だと主張している[5]。テレンティウスは、小スキピオやガイウス・ラエリウス・サピエンスの寵愛を受けたとされているが、フェネステラの説では両者よりも年上となり、コルネリウス・ネポスは皆同い年であったとしている[6]。一般的にはこのネポスの説、生年は前185年であると考えられている[7]。 テレンティウスの生地はカルタゴか、あるいは生まれはギリシア・イタリアで、奴隷としてカルタゴに連れて行かれたのだと思われる。いずれにしても、テレンティウスの第三名「アフェル」は、奴隷としてカルタゴからローマに連れてこられたことを暗示している[8]。「アフェル」という名前は共和政ローマの時代には二つの違う意味に使われていたが、テレンティウスの時代には、カルタゴを含むアフリカのリビア一帯の人間を指していたからである。もっとも146年の第三次ポエニ戦争以降は、カルタゴ人を指す名前は「プニクス(Punicus)」で、「アフェル」はカルタゴ人以外のアフリカ人を指すようになった[9]。古代リビア人(en:Ancient Libya)[10]またはベルベル人の家系だった可能性もある[11]。 しかし、「アフェル」がアフリカ出身であることを確実に証明しているわけではなく、ルカヌスの奴隷であったという話や、同じく奴隷出身と揶揄されていたカエキリウス・スタティウスとの出会いといったエピソードは、作り話かもしれない[12]。 紀元前166年、『アンドロス島の女』を書き上げ[13]、紀元前160年、小スキピオの実父であるルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの葬儀のために、『兄弟』と『義母』が上演されたと言われるが、真の作者は小スキピオやラエリウスだとする噂もあった[14]。貧しかったとも言われるが、スエトニウスによれば20ユゲラの土地を持ち、娘はエクィテス(騎士階級)に嫁いでおり、著作活動でいくらか報酬を得ていたことは確かであろう[13]。その後、海外へ出かけて亡くなったとされるが、なぜ、そしてどこへ向かったのかすら定かでなく、新作の原稿を無くしたことによる失望、溺死や病死などさまざまな理由が付けられ、紀元前159年に没したとされる[15]。突然の渡航は、追放の可能性も考えられる[16]。 評価
古代![]() 古代ローマの演劇は、紀元前3世紀のルキウス・リウィウス・アンドロニクスが古代ギリシアの演劇を翻訳して上演したことで本格的に始まり、グナエウス・ナエウィウス、エンニウスを通じて広まるうちに、分野の専門化が進み、ギリシアの新喜劇を専門に翻案して人気があったのがプラウトゥスとテレンティウスであった[17]。この二人は、後に「喜劇の父」と称される[18]。 プラウトゥスは、面白さを追求し、そのためなら容赦なく原作に手を入れ、祝祭にふさわしい庶民的な作品を作り上げた[19]。一方テレンティウスは、プラウトゥスよりも原作に忠実で、下手にローマ化せず、笑いよりもリアルな描写を追及したところが対照的である[20]。キケロやホラティウスといったインテリ層にはその上品さが逆に好まれ、ガイウス・ユリウス・カエサルには「純粋な言葉の愛好者」と評されたが、当時の観客はより派手な見世物が始まるといなくなってしまい、『義母』の上演は2回失敗したりしている[21]。冒頭の『自虐者』のセリフはキケロやセネカに引用され、有名な標語となった[22]。 作曲家フラックス(en:Flaccus (composer))がテレンティウスの『義母』の一節(1行)につけた旋律は、無傷で残っている古代ローマの音楽のすべてであると言われてきた。しかし、最近では、それは贋作であると言われている[23]。 1世紀後半にはウァレリウス・プロブスが、2世紀にはアエミリウス・アスペルが注釈を作っているが、現在まで残っているのはドナトゥスのものである[24]。 中世以降![]() ![]() 中世ヨーロッパの演劇は、古代ギリシア・ローマとの繋がりは希薄だと考えられているが、修道院での研究は続けられていた[25]。ベネディクト会の修道女ロスヴィータは、内容はキリスト教的ではあるが、テレンティウスの構成を研究して6つの劇を制作しており、テレンティウスの作品は中世においても高く評価され、人気があったと考えられている[26]。 テレンティウスの写本は、5世紀の東ローマ帝国のものと、9世紀のカロリング朝の2つの系統で伝わり、活版印刷が発明されると、1470年にはストラスブールで全集が出版され、16世紀にはヴェネツィアやフィレンツェでも出版された[27]。15世紀、イタリアのフェラーラでプラウトゥスやテレンティウスの作品が上演されるようになると、それを元にしてオリジナルの劇が制作され、その幕間劇が発達し、オペラへと繋がっていく[28]。学者Claudia Villaは800年以降に書かれたテレンティウスの写本は650冊あると見積もっている。 ロスヴィータは、教養ある人間は異教のテレンティウスの戯曲のキリスト教版を読むべきで、そのために自分は戯曲を書いたと言い、一方マルティン・ルターは、「人は万物の霊長である」という洞察に切り出すのにしばしばテレンティウスを引用したばかりでなく、子供の学校教育のために彼の喜劇を推薦した[29]。 エラスムスも青少年が読むべきとし、イギリスでも16世紀からその作品は上演され、17世紀以降のウィリアム・コングリーヴやリチャード・スティール、リチャード・ブリンズリー・シェリダンといった劇作家や、フランスのモリエールらにも影響を与えた[30]。ただ、フランスではプラウトゥスのものが先に上演され、テレンティウスの作品は、『宦官』が1654年にジャン・ド・ラ・フォンテーヌによって翻訳されはしたものの、初めて上演されたのは1691年と遅れ、『宦官』をかなり変更した翻案である『口の利けない男』としてであった[31]。テレンティウスの作品に現れる古代ローマの様子が、当時のフランスの倫理観にはそぐわなかったため、変更されたものと思われる[32]。 アウグスティヌスは演劇を風紀を乱すものと見做したが、フランスでも伝統的にその考えが支持されており、ポール・ロワイヤル修道院の小さな学校では演劇が禁止されていた[33]。しかし、その言葉の美しさから、テレンティウスの作品は1647年にサシ師によって『アンドロス島の女』、『兄弟』、『ポルミオ』が翻訳され、プラウトゥスの作品と共にラテン語教育の教材として使われていた[34]。1658年から翌年にかけて、プラウトゥスと合わせてテレンティウス全集の対訳がミシェル・ド・マロールによって書かれている[35]。テレンティウスの作品は、演劇としてだけでなく、その文章自体が高く評価され読まれてきたが、そのためかえって演劇としての本質が忘れられる側面もあった[36]。。 エラスムスはラテン語習得のための最良のテキストとしてテレンティウス、次いでプラウトゥスを挙げ、『格言集』の中で多数のテレンティウスの文章を引用している[37]。ドービニャック師(英語版)は、プラウトゥスよりテレンティウスのセリフの方が優雅だと評している[38]。テレンティウスの3作品を翻訳したサシ師は、その上品さと文の美しさを評価している[35]。ラ・フォンテーヌは、テレンティウスの写実性を高く評価しており[39]、同時代のポール・ペリソンは、テレンティウスを前衛詩人として賞賛している[40]。小林標は、彼の作品は一種の普遍性を持ったものだと評価している[32]。 作品![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
日本語訳
脚注
参考文献
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia