ヘルミーナ・フォン・シェジー![]() ヘルミーナ・フォン・シェジー(Helmina von Chézy、1783年1月26日 - 1856年1月28日)は、ドイツのロマン主義詩人、劇作家。1820年代にはドイツでもっとも有名な女性作家のひとりだった[1]。現在ではウェーバーのオペラ『オイリアンテ』の台本およびシューベルトの付随音楽による『キプロスの女王ロザムンデ』(いずれも1823年初演)の作者として記憶されている。 生まれた時の名はヴィルヘルミーネ・フォン・クレンケ(Wilhelmine von Klencke)であった。 生涯ヘルミーナはベルリンに生まれた[2]。母方の祖母は詩人として有名なアンナ・ルイーザ・カルシュ(カルシン)である。ヘルミーナがまだ幼いときに両親は離婚し[2]、祖母に育てられた[3]。 1799年、16歳のときにハストファー男爵と結婚したが、間もなく離婚している[2]。 ジャン・パウルの強い影響を受けて早くから文学界に入った[2]。ジャンリス伯爵夫人 (Stéphanie Félicité, comtesse de Genlis) の招きによって1801年にパリへ行き[2]、フランスの現状をドイツに書き送る通信員として働いた[3][4]。1803年から翌年にかけてヘルミーナはフリードリヒ・シュレーゲルおよびドロテーア(この2人は1804年に結婚)とパリの同じアパートを共有していた[5]。パリでコッタから雑誌『Französische Miscellen』を出版した(1803-1807年)[2]。著書『ナポレオン以降のパリの生活と芸術』(Leben und Kunst in Paris seit Napoleon、2巻、1805-1807年)はナポレオンによって押収された[2][3]。 1805年に東洋学者アントワーヌ=レオナール・ド・シェジーと再婚し、ヴィルヘルムとマックスの2人の息子を生んだが、1810年に離婚してフランスを離れた[2]。 ヘルミーナは社会慈善活動にかかわり、1813年には戦争病院で働いた。後にベルリンで戦争負傷者調査委員会(Invaliden-Prüfungs-Kommission)を誹謗した罪で告発されたが、裁判官のE.T.A.ホフマンは彼女を無罪とした[2]。1817年に女性の恋愛遍歴を描いた小説『Emma, eine Geschichte』を著している[6]。 1817年にドレスデン、1823年にウィーンに移り住んだ[2]。ウィーンでもベルリンと同様の裁判沙汰を引き起こした[2]。1830年からミュンヘンに住んだ[2]。 1832年に元夫のシェジーが没すると、パリに赴いて1200フランの年金を得た[3]。ヘルミーナはジュネーヴに住んだ。晩年はすでに病気でほとんど盲目になっていたが、ここで回想録を口述筆記した(『Unvergessenes』2巻として没後の1858年に出版)[2]。1856年にジュネーヴで没した[2]。 脚注参考文献
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