ヘンリー・サマセット (1849-1932)
ヘンリー・リチャード・チャールズ・サマセット卿(英: Lord Henry Richard Charles Somerset PC DL JP、1849年12月7日 - 1932年10月10日) は、イギリスの保守党所属の政治家、大衆音楽作曲家。第2次ディズレーリ内閣(1874年 - 1880年)で1879年まで王室会計監査官を務めた。弟のアーサー・サマセット卿と同様、同性愛スキャンダルによって立場を失い、国外に去った。 生涯第8代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットとレディ・ジョージーナ・カーゾン(初代ハウ伯爵リチャード・カーゾン=ハウの娘)の間の第4子・三男としてダブリン県キングスタウンのザ・ソルト・ヒル・ホール(the Salt Hill Hotel)で誕生[1]。 1871年総選挙でモンマスシャー選出の庶民院議員となり、1880年の落選まで務めた[2][3]。1874年の第2次ディズレーリ内閣組閣時に枢密顧問官及び王室会計監査官に任命され[4]、1879年まで同職にあった[5]。モンマスシャー副統監及びモンマスシャー・ヘレフォードシャー治安判事の名誉職も保有した。 1872年2月6日、第3代サマーズ伯爵チャールズ・サマーズ=コックスの長女でその共同相続人のレディ・イザベラ・サマーズ=コックスと結婚[6]。しかし隠れた同性愛者だったヘンリー卿が17歳の少年との情事に夢中になったことにより、結婚生活は数年で崩壊した[7][8]。イザベラは夫の同性愛を暴露したことで上流社交界から追放され、ヘンリー卿も政治的キャリアを失って、国外退去とイタリアへの移住を余儀なくされた[9]。 ヘンリー卿はイタリア移住後、「文学史上最初のユレイニアン詩[10]」とされる詩集『別れの歌(Songs of adieu)』(1889年)を発表した[11]。また幾つかの曲を作曲し、その中では『眠りの歌(A song of sleep)』(1903年)がよく知られる。またクリスティーナ・ロセッティの詩『エコー』にも曲を付け、1900年にチャペル社(Chappell & Co)から発売した際は相当な人気を得た[12]。 ヘンリー卿は1932年にフィレンツェで没した[12]。 子女妻との間に一人息子があった。
息子ヘンリーと最初の妻の間の孫息子デイヴィッド・サマセットは1984年ボーフォート公爵(第11代)を襲爵した[14]。 引用・脚注
外部リンク
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