ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第4代ランズダウン侯爵)
第4代ランズダウン侯爵ヘンリー・トマス・ペティ=フィッツモーリス(英語: Henry Thomas Petty-Fitzmaurice, 4th Marquess of Lansdowne, KG、1816年1月7日 - 1866年7月5日)は、イギリスの貴族、政治家。 1837年から議会入りし、ホイッグ党(自由党)の政治家として同党政権下で外務政務次官などの政府役職を務めた 生誕から兄が死去する1836年まで侯爵家のヤンガーサンとして卿(Lord)の儀礼称号で称され、1836年から襲爵する1863年までは法定推定相続人としてシェルバーン伯(Earl of Shelburne)の儀礼称号で称された。 経歴1816年1月7日に第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスとその妻ルイーザ(第2代イルチェスター伯爵ヘンリー・フォックス=ストラングウェイズの娘)の間の次男としてロンドン・バークレー広場のランズダウン侯爵邸ランズダウン・ハウスに生まれた[2][3]。兄にケリー伯爵(儀礼称号)ウィリアム・ペティ=フィッツモーリスがいる[3]。 ウェストミンスター・スクールを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学[2]。1836年に兄のケリー伯ウィリアムが男子なく死去したため、代わってランズダウン侯爵家の法定推定相続人となり、シェルバーン伯爵の儀礼称号を称するようになった[2]。 1837年からキャルネ選挙区から選出されてホイッグ党(後の自由党)の庶民院議員となる[2][3]。 1847年から1848年にかけてはホイッグ党政権の第一次ラッセル内閣で下級大蔵卿を務めた[2][3]。ついで1856年から1858年にかけては自由党政権の第2次パーマストン内閣で外務政務次官を務めた[2][3]。 1856年7月にはいまだ父が存命ながら繰上勅書により第4代ウィコム男爵を襲爵して貴族院議員に転じた[2][3][1]。 1863年1月には父の死により第4代ランズダウン侯爵位を継承し、1864年にはガーター勲章を受勲したが、1866年7月5日にランズダウン・ハウスにおいて死去した。爵位は長男ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスが継承した[2][3]。 栄典爵位1856年7月14日の繰上勅書により父ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスから以下の爵位を継承した[2][3]。
1863年1月31日に父ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの死去により以下の爵位を継承した[2][3]。
勲章家族1840年8月18日に第11代ペンブルック伯爵ジョージ・ハーバートの娘ジョージアナと最初の結婚をしたが、翌1841年に死別した[3]。 ついでフランス軍大将ド・フラオー・ド・ラ・ビヤールドゥリー伯爵(Comte de Flahault de la Billardrie)オーギュスト・シャルル・ジョゼフ・ド・フラオー(ナポレオン帝政や復古王政のフランス外相シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールの息子)の娘エミリー・ジェーン・マーサー・エルフィンストン・ド・フラオー(Emily Jane Mercer Elphinstone de Flahault, 1819-1895)と結婚した[2][3]。このエミリーはスコットランド貴族第2代ネアーン卿ウィリアム・マリーの来孫にあたり(第2代ネアーン卿の次男ロバートの次男ウィリアム・マーサーの娘ジェーン・マーサーの娘マーガレット・マーサー・エルフィンストンの娘がエミリー)、そのため1874年8月4日の貴族院決議によってエミリーが第8代ネアーン女卿と認められている(彼女の死後ネアーン卿位は5代から7代までのランズダウン侯爵によって継承され、その後は女系継承でマージー子爵ビンガム家に継承されて2016年現在に至っている)[4]。エミリーとの間に以下の2男1女を儲けた[2][3]。
脚注出典
外部リンク
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