ボードゥアン2世 (エノー伯)
ボードゥアン2世(Baudouin II, 1056年 - 1098年?)は、エノー伯(在位:1071年 - 1098年?)。フランドル伯位を主張したが成功しなかった。第1回十字軍に参加したが、アナトリア半島で行方不明となった。 生涯ボードゥアン2世はフランドル伯ボードゥアン6世とエノー女伯リシルドの次男である。兄アルヌールがカッセルの戦いにおいて戦死した後にエノー伯位を継承した。一方でフランドル伯位は戦いで勝利した叔父ロベール1世が奪い取った。ボードゥアンが未成年であった1083年まで、母リシルドはフランドル伯位奪還のためロベール1世との戦いを継続したが失敗に終わった。資金を得るためにリシルドは伯領をリエージュ司教領に委ね、この取引で得た資金で、1072年ごろにリシルドはブイヨン公、ナミュール伯、ルーヴァン伯、モンテギュ伯、シニー伯、オーモン伯(Reiffenbergによるとクレルモン伯[1])などと同盟を結んだが、ロベール1世はブロクロワで決定的に同盟軍を打ち負かした[1][2]。 ボードゥアンは領地の一部をリエージュ司教に売却した後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの軍(対立している親族フランドル伯ロベール2世の軍ではなく)に入り第1回十字軍に参加した。1098年、アンティオキア攻囲戦の後、東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスの支援を求めるため、ヴェルマンドワ伯ユーグ1世とともにコンスタンティノープルに送り返された。しかし、ボードゥアンはアナトリアにおいてセルジューク・トルコからの襲撃を受けた際に姿を消し、おそらく殺されたとみられる。ボードゥアンの安否は長い間不明なままであった。1106年にエルサレムへの巡礼中に、ボードゥアンの妻イドはアナトリアで行方不明の夫の捜索を行ったが、確認できなかった[3]。 子女1084年にルーヴァン伯アンリ2世の娘イドと結婚し、以下の子女をもうけた。
脚注
参考文献
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