ポーランド民主化運動
ポーランド民主化運動(ポーランドみんしゅかうんどう)は、ポーランドの政治改革運動。最終的に従来のポーランド統一労働者党による政権は下野し、レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)率いる独立自主管理労働組合「連帯」が政権を握った。 通常、ポーランドや欧米ではこの民主化期間を第3共和制(ポーランド語: III Rzeczpospolita (III RP)、英: The Polish Third Republic)と呼ぶ。これは、1989年以降、特に1989年から1991年にかけて行われた民主化(運動)による民主政権を指す。 背景→詳細は「pl:III Rzeczpospolita」を参照
→詳細は「en:History of Poland (1989–present)」を参照
ポーランドはロシアと領土を巡り、中世から幾度となくポーランド・ロシア戦争が続いていた。第二次世界大戦後、共産主義のソビエト連邦によりポーランドはナチス・ドイツの占領から解放され、ソ連の重要な東側諸国となった。ポーランド人共産主義者により国は統制された[1]。 共産主義時代のポーランド人民共和国は慢性的に経済状況が悪化していた。西側諸国から膨大な借款を受け続け、インフレーション、食料配給制と食料・物資・経済の欠乏、ストライキ、暴動、暴動鎮圧を繰り返していた[2]。 1985年9月、トルン大学(ニコラス・コペルニクス大学)の天文学者ら(Zygmunt Turlo、Leszek Zaleski、Piotr Lukaszewski、Jan Hanasz)が自作の放送機材を用いトルンの国営テレビ放送を電波ジャックし、「値上げ、嘘、弾圧はもうたくさんだ。トルン「連帯」 (Enough price increases, lies, and repressions. Solidarity Torun)」と「選挙のボイコットはわれわれの義務である (It is our duty to election boycott)」という2つの字幕と独立自主管理労働組合「連帯」のロゴを国営放送の内容に被さるように表示させた[3]。4人は当局に発見され、「無免許の無線送信機の所持と公衆の不安を煽る行為」を罪状として拘束された。しかし当局は西側諸国からの批判をかわす為でそれぞれに100ドル相当の罰金と執行猶予付きの懲役判決を下すに留まった。しかし、ポーランドの一般的な月収が20ドルに満たない時代であった当時としてはこの判決でも大変な重刑であり、民衆の不満は高まった[4]。 1987年、政府は国民投票の不成立で経済政策の改善に失敗。急激なインフレにより、価格が40%も値上がり、直ちに全国で暴動と長期的なストライキが起こる。政府により暴力的な暴動鎮圧と軍の介入がなされた。 1989年、円卓会議により、ストライキは終了する。東欧革命と共にポーランドの共産主義体制は終了した。 キリスト教や宗教は共産主義政権により弾圧されていた。ポーランド人ヨハネ・パウロ2世は、1979年6月にポーランドを訪問[注釈 1]、国民を勇気づけた。 1980年からレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化、政府は1981年に連帯を非合法化。1983年、戒厳令が解除されるまでにも、非合法ながら連帯は活動を続けた。依然として国内改革と民主化を要求し、ポーランド統一労働者党による政権を揺るがし続けた。 ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ政権は、連帯の非合法化と戒厳令を敷いた。その後は穏健主義の立場で事態の打開を模索した。 民主化の推移ポーランドでの民主化を模索する動きは1970年代末、ポーランド系ユダヤ人活動家は反共主義グループ「en:Workers' Defence Committee (KOR)」を組織した。1981年、非合法化された「連帯」を合法化、1989年の2月からはポーランド統一労働者党政権と連帯や他の民主化勢力との(円卓会議)が行なわれた。両者間で自由選挙[注釈 2]の実施をすることで合意がなされた。東欧では先頭を切って自由選挙が実施され、ヴァウェンサ率いる連帯が圧勝[注釈 3]。新政権として民主化を求める非労働党勢力が主導権を握りつつも、労働党勢力を政権に取り入れる連立政権が発足し、ヤルゼルスキが暫定的な大統領に就任。首相以下閣僚に連帯などの非労働党勢力出身の人物を任命して、新生ポーランドがスタートした。 新政権は、ポーランド統一労働者党の共産主義やスターリン主義に基づいた憲法の改正、国名改正でポーランド共和国となる。国民の直接選挙による大統領選挙の導入を決定。1990年、国民投票の結果、大統領を直接選挙によってではなく総選挙後の国会で決めることになる。大統領選挙により、連帯のヴァウェンサ(ワレサ)が当選。 ポーランド民主化運動の主な人物
ポーランド国外で民主化運動を支援した人物
年譜
脚注注釈出典
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