ポール・マリー・ヴェルレーヌ (Paul Marie Verlaine, 1844年 3月30日 - 1896年 1月8日 )は、フランス の詩人 。ポール・ヴェルレーヌ 、あるいは単にヴェルレーヌ とも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ 、アルチュール・ランボー らとともに、象徴派 といわれる。多彩な韻を踏んだ約540篇の詩を残す一方で、破滅的な人生を送った。
中学卒業直後、高踏派の詩人たちと交わり、14歳でユゴーに詩作品を送った早熟の天才。『土星びとの歌』『女友だち』『よい歌』などの詩集で有名になった。
27歳のとき、16歳の少年ランボーから手紙を受け、その詩心に感心して交際する。だが意見の相違からピストルでランボーを負傷させた。有名な詩集『叡知』には服役中の心境が詠まれている。
放埒な生活は生涯なおらず、貧窮のうちに施療病院で死んだ。
生涯と作品
彼の一生には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在する。晩年には文名を高めデカダンス の教祖と仰がれたが、初期の作品の方が評価が高い。以下、箇条書きの部分は文学的事項である。
生い立ち
1844年-1864年
ドイツに隣接するモゼル県 のメス に生まれる。父はベルギー生まれのフランス軍人。母はパ=ド=カレー県 アラス 近郊の生まれ。経済的な環境には恵まれており、父の退役後一家はパリ (9区 ) に出て(7歳)、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いでリセ ・ボナパルト (Lycée Bonaparte、現在の9区にある名門校のリセ・コンドルセ [ 1] に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。大学入学試験 に合格し(18歳)、パリ市役所 書記となる(20歳)。
青年期
1865年-1871年
父を喪う(21歳)。18歳の美少女マチルド・モーテ(Mathilde Mauté)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく普仏戦争 (1870年7月19日 - 1871年5月10日)に召集される。1871年のパリ・コミューン 鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリのパンテオン 近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ 誕生(27歳)。
1866年(22歳):詩人たちが原稿を持ち寄った第1次「現代高踏詩集」(Le Parnasse contemporain)に7篇を寄稿。
1867年(23歳):サテュルニアン詩集 (Poèmes saturniens)を従姉の出資で処女出版。ブリュッセル で女の友達 (Les Amies)を匿名で刊行(後に「雙心詩集」に収録)。
1868年(24歳):文壇の知人を増やす。「女の友達」で軽罪裁判所から断罪される。ブリュッセル在のユーゴーを訪問。
1869年(25歳):「よき歌」の数篇を書く。艶なる宴 (Fêtes galantes)刊行。
1871年(27歳):第2次「現代高踏詩集」に5篇を投稿。
ランボー
前列左よりヴェルレーヌ、ランボー 、L・ヴァラード、E・デルヴィリィ 、C・ペロタン 、後列左よりP・エルゼアル・ボニエ 、E・ブレモン 、J・エカール 。アンリ・ファンタン=ラトゥール 筆
1871年-1875年
結婚1年後、ランボー と会い、妻に乱暴を繰り返した上で彼と同棲し、イギリス ・ベルギー ・北フランスを転々とする。母と妻が説得に来ても置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書き、ユーゴーに妻との交渉を懇願する。ロンドンで病臥し、母を呼ぶ(28歳)。ホテルで口論となったランボーをブリュッセルで購入した拳銃で2発撃ち、1発が手首に命中したが致命傷にはならなかった[ 2] 。この騒動により2年間収監される[ 2] 。この拳銃は2016年にクリスティーズで競売にかけられ、43万4500ユーロで落札された[ 2] 。妻の別居請求(この時点では離婚はしていない)が認められたことを獄中で知って落胆し、カトリックに帰依した。1年半後出獄し、元妻との和解を図る一方、旅先でランボーと格闘する(31歳)。
1872年(28歳):婚約時代のマチルドを歌った優しき歌 (La Bonne chanson)、戦乱に遅れて発行。
1874年(30歳):獄中で書いた無言の恋歌 (「言葉なき恋歌」とも/Romances sans paroles)が友人の手で刊行され、獄中の著者に届けられる。
1875年(31歳):第3次「現代高踏詩集」への投稿を断られる(このとき、マラルメも同じ扱いを受ける)。
教職と美少年
1875年-1885年
イギリスの中学に教職を得る(31歳)。アルデンヌ県 の学校に転じ、美少年の生徒リュシアン・レチノア に惚れ、授業を降ろされる(33歳)。その後リュシアンと英国へ渡り、教職を得る。再び元妻との和解を図り、黙殺される(35歳)。リュシアンを伴い帰国し、郷里に滞在(36〜37歳)。母としばらくパリに住み、市役所への復職を図るも果たせず、西郊の学校に就職(38歳)。リュシアンが死去 (39歳)し、その故郷で堕落放浪の日々を送る(〜40歳)。泥酔して母の首を絞めて入牢。出獄後再びリュシアンの故郷を放浪した(41歳)。
1881年(37歳):叡智 (Sagesse)刊行、売れ行き振るわず。
1882年(38歳):雑誌に、「昔と近頃」の数詩篇と、獄中作の詩法 (Art poétique)を発表(「詩法」は後に「昔と近頃」に併載)。
1884年(40歳):評論、呪われた詩人たち (Les Poètes maudits)刊行。
栄誉と窮乏
1885年-1896年
無一文でパリへ戻りホテル住まいをする。左膝を傷め、一時慈善病院へ入院した(41歳)。経済的援助をしていた母が死去するが、病気のため葬儀に参列しなかった。ホテルを追い出され(42歳)て、以降慈善病院を転々とする(42歳-)。慈善病院から娼婦ウジェニー・クランツの家へ転じ、情夫となった。生活費のため、オランダへ講演旅行(48歳)をした。ウジェニーに駆け落ちされて慈善病院に入院し、娼婦フィロメーヌ・ブーダン に連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をする(49歳)。ウジェニーと和解しまた同棲する。入院を2回(50歳)した。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅[ 3] で、娼婦に看取られて死去した。サン・テチエンヌ・デュ・モン教会 で葬儀が行われた。マラルメ 、フランソワ・コペー(fr:François Coppée )ほか参列者多数だった。ただし、入営 して病中にあった息子のジョルジュは不参加だった。パリ市17区 のバチニョル墓地(Cimetière des Batignolles) に埋葬(51歳)された。
日本では、東大生の上田敏 が、「ポオル・ヴェルレエヌ 逝く」(1896)を発表した[ 4] 。
1885年(41歳):漸く文名を世に知られる。昔と近頃 (Jadis et naguère)刊行。
1886年(42歳):雑誌に「パルジファル」(Parsifal)掲載。
1888年(44歳):愛の詩集 (Amour)刊行。
1889年(45歳):雙心詩集 (Parallèlement)刊行。
1890年(46歳):献書詩集 (Dédicaces)予約出版。
1891年(47歳):文名ますます高まる。「人さまざま」(Les Une et les Autres)上演。幸福 (Bonheur)、「ヴェルレーヌ選集」、女に捧げる歌 (Chansons pour elle)刊行。
1892年(48歳):我が病院 (Mes hôpitaux)、内なる祈祷の書 (Liturgies intimes)刊行。
1893年(49歳):プリューム(La Plume)誌の第8回饗宴の座長を務める。アカデミー・フランセーズ の会員に立候補し、取り消す。哀歌 (Élégies)、その名誉を讃える歌 (Odes en son honneur)、獄中記 (Mes prisons)、オランダ15日 (Quinze jours en Hollande)刊行。
1894年(50歳):奈落の底 (Dans les limbes)刊行。シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール の後任として、「詩王」(Prince de Poéte)に選ばれる。エピグラム (Épigrammes)刊行。
1895年(51歳):懺悔録 (Confessions)刊行。「失意」(Désappointement)執筆。
日本語文献
歌曲
以下の作曲家がヴェルレーヌの詩をもとにした歌曲を残している。
エルネスト・ショーソン - 『4つの歌曲』から1篇、『ヴェルレーヌの2つの詩』から2篇
「安らぎ」op.13 (1885年)
「いと優しき歌」op.34 (1889年)
「不運な騎士」op.34 (1889年)
ガブリエル・フォーレ - 『艶なる宴』から4篇、『言葉なき恋歌』から2篇、『優しき歌』から9編、他
「月の光 」Op.46-2(1887年)
「憂鬱」op.51-3(1889年)
歌曲集『5つのヴェネツィアの歌 』Op.58(1891年、5曲)
「マンドリン」「ひめやかに」「グリーン」「クリメーヌへ」「やるせない夢心地」
歌曲集『優しい歌 』op.61(1891年 - 1892年、9曲)
「後光を背負った聖女」「暁の光は広がり」「白い月影は森に照り」「私はつれない道を歩む」「私は本当に恐ろしいほど」「暁の星よ、お前が消える前に」「それはある夏の明るい日」「そうでしょう?」「冬が終わって」
「牢獄」Op.83-1(1895年)
クロード・ドビュッシー - 『艶なる宴』から9篇、『言葉なき恋歌』から6篇、『叡智』から3篇
「操り人形」(1882年)
「ひめやかに」(1882年)
「マンドリン」(1882年)
「パントマイム」(1882年)
「月の光」(1882年)
歌曲集『忘れられたアリエッタ 』(1886年 - 1889年、6曲)
「やるせない夢心地」「巷に雨の降るごとく」「木陰にて」「木馬」「緑」「憂鬱」
歌曲集『艶なる宴 』第1集(1891年、3曲)
歌曲集『3つの歌曲』(1891年、3曲)
「海はさらに美しく」「角笛の音は悲しく」「垣根のつらなり」
歌曲集『艶なる宴 』第2集(1894年、3曲)
モーリス・ラヴェル - 『艶なる宴』から1編、『叡智』から1篇
「暗く果てしない眠り」(1895年)
「草の上で」(1907年)
レイナルド・アーン
肖像画
脚注
関連項目
フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
外部リンク