マクシミリアン・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ![]() ヨハン・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フィリップ・クレメンス・フォン・ウント・ツー・アルコ・アオフ・ファーライ(Johann Maximilian Josef Maria Philipp Clemens Graf von und zu Arco auf Valley, genannt Bogen, 1806年4月8日 ミュンヘン - 1875年12月23日 ヴェネツィア)は、ドイツ・バイエルン王国の大土地所有者、政治家。伯爵。 生涯ミュンヘンのヴィルヘルム中等教育学校で1823年アビトゥーア資格を取得[1]。ストラスブール大学、ランツフート大学に遊学するが、1826年にはミュンヘン大学に戻った。同年、学生組合コーアス・イザリアに加入した[2]。 1828年よりバイエルン参議院議員を終身で務めた。また1868年から1870年まで、関税議会のシュヴァーベン3区(ディリンゲン郡・ギュンツブルク郡・ツーシュマルツハウゼン地区)選出の議員を務めた。カトリック保守派のバイエルン愛国党の代表的存在だった。 オーバーエスターライヒ州のザンクト・マルティン及びアウロルツミュンスター、バイエルンのファーライ、アードルドルフ、マルガースドルフ、オーバーケルンバッハ(ランツフート郊外)及びバウムガルテン(ディータースブルク郊外)の領主であった。また、南ドイツ土地信用銀行の共同設立者にも名を連ねた。 家族・親族カール・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵(1769年 - 1856年)とその妻の伯爵令嬢マリア・アンナ・フォン・ザインスハイム(1774年 - 1847年)の間の一人息子。バイエルン選帝侯未亡人マリア・レオポルディーネは義理の叔母にあたり、その2人の息子、アロイス・フォン・アルコ=シュテッペルク及びマクシミリアン・フォン・アルコ=ツィンネベルクとは従兄弟同士である。 1832年6月11日ボローニャで、伯爵令嬢アンナ・マレスカルキ(1813年 - 1885年)と結婚。アンナの父方祖父フェルディナンド・マレスカルキ伯爵、母方祖母グロポリ侯爵夫人アンナ・ピエーリ・ブリニョーレ・サーレはいずれもフランス第一帝政期に活躍したイタリア人であった。夫妻の間には8人の子があった。
引用
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