マヌエル・ディアス・ジュニオルマヌエル・ディアス・ジュニオル(Manuel Dias Jr. マヌエル・ディアシュ・ジュニオル、1574年 - 1659年3月4日)は、ポルトガルのイエズス会修道士。明末の中国で宣教活動を行った。 中国名は陽瑪諾(Yáng Mǎnuò)。同姓同名の中国宣教師(中国名は李瑪諾、1560-1640)との区別のために「Junior」がつけられる。名は「Emmanuel」とも呼ばれる。姓はスペイン語風に「Diaz」と書かれることもある。 略歴(Leitão (2008) pp.99-103 による) ディアスはカステロ・ブランコに生まれ、1593年にイエズス会に入会した。コインブラ大学で哲学を学んだ後、1601年にゴアにわたった。1604年または1605年にマカオに着き、6年間そこで哲学と神学を教えた。1610年か1611年にガスパル・フェレイラとともに韶州に向かったが、当時韶州の人々は宣教師に敵対的であったため、南雄に新しい伝道所を築いた。 1613年には北京にあった。1616年にマカオに戻ったところで沈㴶(しんかく)のキリスト教排撃がはじまったため、マカオから出られなくなった。1621年に再び北京に到った。その後中国各地で布教した。1623年にジョアン・ダ・ロシャが死亡すると、その後をついで中国準管区長に就任した。1659年、杭州で没した。 主な著作『天問略』(1615年)は天文学に関する問答で、附録にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使ってさまざまな新発見をしたことを記す[1]。李之藻の叢書『天学初函』に収める。 『(天主降生)聖経直解』(1636年、14巻)は福音書の文句とその注釈である。日曜ごとの説教のときに読みあげるためのものという[2]。 『軽世金書』(1640年?、4巻)は『キリストに倣いて』の中国語訳[3]。 『唐景教碑頌正詮』(1644年、1巻)は大秦景教流行中国碑の解説書[4]。 脚注参考文献
外部リンク
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