マヌエル・デ・ブリト・フィリオ
オビナ (Obina) こと、マヌエル・デ・ブリト・フィリオ[1](Manuel de Brito Filho、1983年1月31日 - )は、ブラジル・バイーア州出身のプロサッカー選手。ポジションはフォワード。 経歴海外 (2014年まで)2001年にヴィトーリアの下部組織に入団し、2002年にトップ昇格。2004年には不振に喘ぐチームの中で24ゴールを記録。うち全国選手権では19ゴールで同僚のエジウソンと並んでチーム得点王となった。しかしクラブは州選手権制覇を果たすも全国選手権では結局セリエBに降格。シーズン終了後にサウジアラビアのアル・イテハドに、その後母国に戻りCRフラメンゴに移籍した。 フラメンゴのサポーターはオビナを「ブラジルのサミュエル・エトオ」と呼び、「オビナはエトオより優れている」というチャント (ôôôô... Obina é melhor que o Eto'o) まで作っている。2006年はチームの核としてコパ・ド・ブラジル制覇に貢献し、同年のプレミオ・クラッキ・ド・ブラジレイロンではフォワード部門で3位に選ばれた。 2007年2月25日に行われたタッサ・グアナバラ(州選手権第1ステージ)準決勝のCRヴァスコ・ダ・ガマ戦で試合開始2分で先制点を奪うも、試合中左ひざの前十字靭帯を損傷、全治6ヶ月の重傷を負った。 その後怪我から復帰するも、今度は9月8日に行われたSCインテルナシオナル戦で相手選手に肘打ちを見舞い、120日間の出場停止処分を科された[2] 。 2008年の州選手権決勝戦ではボタフォゴFR相手に2試合で3ゴールを奪い、フラメンゴの30回目の優勝に貢献した。 2009年5月25日、2009年いっぱいの契約でSEパルメイラスに期限付き移籍した[3]。7月26日のサンパウロ・ダービーではライバルのSCコリンチャンス・パウリスタ相手にハットトリックを達成し、3-0の勝利に貢献した[4]。 11月18日、チームメイトのマウリシオと口論の末に殴り合うという騒動を起こした。これが原因で相手共々2試合を残して契約を解除された[5][6]。 2010年の最初の2週間をフラメンゴで過ごした後、1月24日にアトレチコ・ミネイロと3年契約を結んだ。移籍金は70万ユーロ。保有権の50%以上はオビナが持つ契約となっている[7]。ミナスジェライス州選手権では3試合3得点を挙げ、クラブの40回目の優勝に貢献した。 2011年に山東魯能史上最高額である250万ユーロ(約2億6千万円、2011年当時)の移籍金で加入。リーグ戦25試合で10得点を挙げるなどの活躍を見せたが、チームはACL敗退、リーグ戦でも連覇を逃し5位に終わった。2012年の途中から古巣のパルメイラスに、2013年にはECバイーアにそれぞれ期限付き移籍。2014年にはアメリカFCに完全移籍し、このシーズンは24試合13得点の活躍を見せた。 Jリーグ2014年12月25日、この年J1初昇格を達成した松本山雅FCに完全移籍することが発表された[8]。2014年のチーム得点王船山貴之の穴を埋める助っ人として期待され、開幕からセンターフォワードで先発出場すると、松本のJ1初ゴールおよびJ1ホーム戦初ゴールの両方を挙げた。2016年シーズン終了後、契約満了により退団[9]。 個人成績クラブ
タイトルクラブ
個人
脚注
関連項目外部リンク
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