マリア・フェリーチェ・ティバルティ
![]() マリア・フェリーチェ・ティバルティ(Maria Felice Tibaldi、1707年11月19日 - 1770年2月3日)は、イタリアの画家である。フランス出身の画家ピエール・シュプレイラスの配偶者でミニアチュールなどを描いた。 略歴ローマで作曲家でヴァイオリニストのジョヴァンニ・バッティスタ・ティバルディ(Giovanni Battista Tibaldi: 1660-1755)の娘に生まれた[1]。1720年からローマの画家ジョヴァンニ・フェリス・ラメリ(Giovanni Felice Ramelli: 1666–1740)のもとで絵を学んだ[2] 。 初め油彩で肖像画や歴史的な題材の作品を描き、後に、ミニチュアールや巨匠の作品の模写、パステル画も描いた。 1734年に、妹のイザベラ(Isabella Antoinette Eléonore Tibaldi: 1712-1773)がフランスの画家ピエール・シャルル・トレモリエール(Pierre Charles Trémolières: 1703-1739)と結婚し、トレモリエールを通じてフランス出身の画家ピエール・シュプレイラス(1699-1749)と知り合い、1739年に結婚した。結婚の機会に、シュプレイラスはティバルティの肖像画を描いた[2]。ローマで息子、ルイジ・スブレイラス(Luigi Subleyras: 1743-1814)生まれ、息子は詩人となり『Nella venuta in Roma di madama Le Comte e dei Signori Watelet, e Copette rinomatissimi letterati francesi』(1764)という作品の著者となった[3]。1805年に亡くなった娘もいた。 夫が会員となった翌年の1742年にローマのアカデミア・ディ・サン・ルカの入会が許された。ローマの芸術家の団体(Accademia dell'Arcadia:1690年設立)の会員になり、この会では雅名で活動する習慣から「Asteria Aretusa」として活動した。 1748年にマグダラのマリアを描いた作品を教皇ベネディクト14世に献じ、教皇から褒賞金を受けた。この作品は1905年にイギリスで出版されたウォルター・ショー・スパローの女性画家に関する著書「Women Painters of the World」に収録された[4]。 夫がローマで亡くなった後、1755年から母親と姉妹や、子供たちと暮らし、妹のテレサに絵を教えた。妹はミニアチュール画家になったが作品は伝わっていない。 マリア・フェリーチェ・ティバルティは1770年にローマで亡くなった。 作品パリサイ人の家での食事(c.1748) カピトリーノ美術館 脚注
参考文献
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