マルクス・ヘレンニウス
マルクス・ヘレンニウス(ラテン語: Marcus Herennius、生没年不明)は紀元前2世紀後期・紀元前1世紀初期の共和政ローマの政治家。紀元前93年に執政官(コンスル)を務めた。 出自ヘレンニウス氏族はイタリア中部・南部に居住していたオスク系イタリック人と推定される。マルクス・ヘレンニウスはノウス・ホモ(先祖に高位官職者をもたない新人)であっただけでなく、「新ローマ市民」であったと思われる[1]。 カピトリヌスのファスティによれば、ヘレンニウスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクスであるが、祖父は不明である[2]。父マルクスはガイウス・センプロニウス・グラックスの友人とされるハルスペックス(生贄の動物の内臓から前兆を読み取る占官)であるヘレンニウス・シクルスと同一人物との説もある[3]。 経歴ヘレンニウスの経歴に関しては、ほとんど知られていないが、生誕年は紀元前136年頃と推定されている[4]。政治歴の初期に造幣官を務めたことが分かっているが、その時期に関しては紀元前109年説[4] と紀元前109年説[3] がある。プラエトル(法務官)就任年は不明だが、執政官就任年とウィッリウス法の規定から、遅くとも紀元前96年と推定される[5]。 紀元前94年末に、ヘレンニウスは執政官選挙に立候補する。対立候補はルキウス・マルキウス・ピリップスであった。ピリップスは非常に著名で影響力のある人物で、幅広い人脈を持ち、優れた弁論家としての評判を得ていた。驚いたことに、ヘレンニウスはより多くの票を獲得し、執政官に当選した。キケロによれば、そのような結果は予想されておらず、「ヘレンニウスのピリップスに対する勝利は、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・エブルヌスのマルクス・アエミリウス・スカウルスに対する勝利(紀元前117年選挙)や、グナエウス・マッリウス・マクシムスのクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスに対するグ勝利(紀元前106年選挙)と同じように、同時代の人々には不可解なものとうつった」と述べている[6]。 紀元前93年に執政官に就任。同僚執政官は、パトリキ(貴族)のガイウス・ウァレリウス・フラックスであった。執政官としての業績はほとんど分かっていない[7]。またこれ以降のヘレンニウスに関する記録もない[3]。 大プリニウスによれば、フラックスとヘレンニウスが執政官の年に、キレナイカでのシルフィウム(現在のどの植物に該当するか不明)の収穫は普通であった[8]。 知的活動キケロは、『ブルトゥス』で、ルキウス・リキニウス・クラッススとマルクス・アントニウス・オラトルと同時代の弁論家として、ヘレンニウスを挙げている。それによると「演説は人並みだったが純粋なラテン語を正確に話す弁論家」であり、「ピリップスに弁論術は劣っていた」とされている[9]。 脚注参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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