マークス・シュタインヘーファー
マークス・シュタインヘーファー(Markus Steinhöfer. 1986年3月7日 - )は、西ドイツ(現ドイツ)・ヴァイセンブルク=グンツェンハウゼン郡ヴァイセンブルク出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはDF、MF(右サイドバック、右サイドハーフ)。 経歴キャリア初期地元のアマチュアクラブでプレーしている頃に、1.FCニュルンベルクのスカウトに発掘される。同クラブのサテライトチームに所属するものの、年齢的な理由もあり公式戦には出場できず。しかし同リーグのFCバイエルン・ミュンヘンからの誘いを受け移籍。同クラブのU19チームでプレーした後、サテライトチームでもレギュラーとして57試合に出場。U19ドイツ・ブンデスリーガ優勝、ドイツ・レギオナルリーガ南部優勝を経験する。 ザルツブルク2006年夏にオーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクへレンタル移籍[2]。元々は右サイドハーフであったが、レッドブル・ザルツブルク移籍後は主に右サイドバックとしてプレー。また、チーム状況によっては左サイドバックとしても試合に出場している。攻撃的なプレースタイルで知られており、時折豪快なロングシュートを決めるクラブの人気選手となった。 2006-07シーズンのリーグ優勝に貢献した他、UEFAチャンピオンズリーグ予選やUEFAカップ本大会での出場を果たす。 フランクフルトボルシア・メンヘングラードバッハからの関心も寄せられる中、2008年2月13日に翌シーズンよりドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトへ移籍することがザルツブルクの公式ホームページで発表された[3]。90万ユーロの移籍金が保有元のバイエルンに支払われ、契約期間は3年となる。フリートヘルム・フンケル監督の下で再び中盤へポジションを移し、レギュラーとしてプレーした[4]。2009-10シーズンよりミヒャエル・スキッベが新監督に就任すると出場会が減少し、移籍を模索する[5]。翌年1月からシーズン終了までは、1.FCカイザースラウテルンへローンとなった[6]。 バーゼル2011年1月26日、スイス・スーパーリーグのFCバーゼルと2年半の契約を締結した[7]。同クラブでは攻撃的な右サイドバックとしてレギュラーポジションを確保[8]。2011-12シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、グループリーグでマンチェスター・ユナイテッドFCとの直接対決を制し2位通過を果たしたメンバーの一員となった[9]。2012-13シーズン終了後に契約満了となりザンクト・ヤコブ=パルクを去り、ドイツ復帰を希望する[10]。 ベティス2013年7月15日、リーガBBVAのレアル・ベティスに3年契約で加入[11]。しかしペペ・メル監督の信頼を得られず、ハビ・チカやフアンフランらの後塵を拝することとなった[12]。12月にフアン・カルロス・ガリードに監督が交代して以降も守備面の不安定さを指摘されるなど、出場機会に恵まれなかった[13]。 1860ミュンヘン2014年1月18日、2.ブンデスリーガのTSV1860ミュンヘンと1年半の契約で移籍[14]。フランクフルト時代の指揮官フリートヘルム・フンケルの存在が、5年振りに母国へ復帰する決め手となったと語っている。 VfRアーレン2015年2月2日、2部で下位に沈むVfRアーレンとシーズン終了まで契約する[15]。しかしクラブはシーズンの結果3部へ降格となった。 スパルタ・プラハ2015-16シーズンより、シノト・リガのACスパルタ・プラハへフリートランスファーで加入[16]。リーグ戦では7試合の出場に留まり、1シーズンでスタディオン・レトナーを後にする。 ダルムシュタット無所属となっていた2016年11月、バイエルン時代のチームメイトであるミヒャエル・シュテークマイアーがマネージャーを務めるSVダルムシュタット98の練習に参加し、フランクフルトで共にプレーしたマルセル・ヘラーと再会[17]。翌年1月20日、トルステン・フリンクス率いる同クラブと1年半の契約を締結した[18]。2017年12月にディルク・シュスターが新監督に就任するとポジションを失い、シーズン終了後にクラブを退団した[19]。 アイヒシュテット2018年9月4日、レギオナルリーガ・バイエルンのVfBアイヒシュテットに加入[20]。娘の誕生を契機に故郷に舞い戻った。 代表歴2007年にはドイツU21代表の一員としてトゥーロン国際トーナメントに出場している。 タイトル
脚注
外部リンク
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