メギドの戦い (紀元前609年)
メギドの戦いとは、紀元前609年にネコ2世のエジプトおよびその同盟国であるアッシリアとバビロニアが北シリアのカルケミシュで戦ったカルケミシュの戦いに関連して起こった、エジプトとユダ王国との戦いである。エジプト軍がカルケミシュに到達するためには、ユダ王国の支配領域を通過する必要があり、ネコ2世はその許可をユダ王ヨシアに要請した。理由は不明であるが、ヨシア王はその許可を与えず、そして戦いが起こり、新バビロニア王国の援軍があったものの、ヨシアはその戦いの中で死んだ。この戦いは、聖書、第1エズラ書およびヨセフスの著作に記録されている。 聖書での記述基本的な物語は列王記下の第23章29節から30節で語られる[1]。
歴代誌下の第35章20節から27節にはより長い記述がある[1]。
その他の記述第1エズラ書の記述は多少のディテールを付け加えたのみである。先行資料である歴代誌と違う点は、ヨシアがメギドにおいて「弱」かったと描写されている点と、彼が死地となるエルサレムに自分を連れ帰るよう依頼している点である。クラインはこれを女預言者ホルダの預言(列王記下 22:15-20)と調和するための加筆であろうとしている。 ヨシアの死から7世紀後、ヨセフスもメギドの戦いについて記述した。その記述には戦場でのヨシアの行動の詳細が含まれている。従来これは失われた資料によって補われたものだと考えられてきたが、クラインはこれを主として聖書の記述による補足であり、おそらくそこにヨセフス自身の見解が加えられたものであろうとしている[2]。 ヘロドトスが歴史でファラオネコについて記述した箇所に、メギドの戦いにあたる記述を見いだせるとする説も存在する[3]。 戦争の場所都市の辺りの地形より、メギドの位置は何千もの軍隊に対応するのに十分な大きな海岸の平野近くの小さな高台であることが明らかとなっている。周辺地域の支配がなく明らかな目標となるような地域ではないが、それでも駐屯地としては有効であり、またキション川 (en)からの水源を持つ地でもある。これらの事は、ヨシアがバビロニアのメソポタミア人を攻撃する途中にあったエジプト軍を待ち伏せするためにイスラエル軍を隠すのにこの地形を利用した事を如実に説明している。 余波この戦いによってユダ王国はエジプトの支配と影響下に入った。シリアとメソポタミアからの帰還時にネコ2世は、ヨシアの跡を継いでユダ王となっていたヨアハズ(エホアハズ)を捕らえて追放した。ファラオは王国に100タレントの銀と1タレントの金を課税し、ヨアハズの異母兄であるエルヤキムを王に任命した。ネコ2世はエルヤキムの名をエホヤキムと改名させた。ヨアハズはエジプトで捕虜となり、彼は国外で死亡した初めての王となった。 歴代誌下に関する議論エリック・H・クラインは、記述の正確性に関して意見が分かれていると説明している。一方でそれがヨシアによる不意打ちの正確な記述であると信じている学者もいる。他には、物語を「改変」したのは歴代誌のみではないと指摘する人々もいる。矢傷を負ったところからエルサレムでのヨシアの埋葬までの物語は、列王記上および下に記された、ヨシアの死より2世紀前のイスラエル王アハズおよびユダ王アハズヤに関する記述と非常に似通っている。クラインは、歴代誌のヨシアの物語においては、これらの物語に含まれる詳細記述が用いられていることを示唆している[2]。 出典
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