メジュゴリエの聖母![]()
メジュゴリエの聖母(メジュゴリエのせいぼ)は、1981年6月24日から現在に至るまで毎日、聖母マリアが出現していると数名の幻視者が主張する、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県、メジュゴリエにおける聖母出現である[注 1]。カトリック教会未公認。 2010年3月教皇庁教理省が、枢機卿の指導のもと、司教、神学者、その他専門家によるメジュゴリエの聖母調査委員会を組織した。 2019年5月12日教皇フランシスコはメジュゴリエへの巡礼を許可した[1]。しかし幻視者たちの真正性に関しては、未だ教会からの調査を要するとしている。 出現と経緯聖母が初めて現れたのは、1981年の洗礼者聖ヨハネの祝日にあたる6月24日水曜日のことであった。その日、メジュゴリエの小教区内にあるビヤコヴィッチの小村落に住んでいるイヴァンカ・イヴァンコヴィッチ(15歳)とミリアナ・ドラギツェヴィッチ(17歳)の二人の少女が、山の方に散歩に出かけた。突然、イヴァンカの前方に何か人間らしい姿をしたほの明るいものが現れた(以上が、第1回)。イヴァンカとミリアナは昼寝をしていたヴィッカ・イヴァンコヴィッチ(16歳)に「目が覚めたら、ヤコブの家に来なさい」という伝言を残して出て行った。ヴィッカが目が覚めて出かける途中、リンゴを摘み取っていたイヴァン・イヴァンコヴィッチ(20歳)とイヴァン・ドラギツェヴィッチ(16歳、ミリアナとは姉弟関係にはない)に出会い、この二人も連れて行く。それから、ミルカ・パブロヴィッチ(13歳)もこの一行に加わった。ミリアナとイヴァンカも加わり、第一回と同様にイヴァンカが最初に人間らしいものを見つけたが、全員逃げ帰る。(中略)翌6月25日にイヴァンカ、ヴィッカ、ミリアナ、イヴァン・ドラギツェヴィッチ、ミルカの姉マリア(16歳)、ヤコブ・ツォロ(11歳)の6人のグループができた(第3回以降。1982年12月25日に10番目の秘密を伝えられたミリアナは以降見ることができなくなり、グループは5人となる。)(中略)証人として2人の大人を加え前日と同じ時刻・場所に行った。(中略)そこには、聖母の姿が彼らを待ち受けていた。ある内からの力によって、彼らは跪き、祈り始めた。(中略)大人には何も見えなかった。(中略)そして、聖母は皆の和解と平和を望んだのである。子供たちは大喜びで帰って行った。3日目は一大群衆となった。2~3千人は集まったようである[2]。 1981年6月24日6人の青少年(ミリアナ、イヴァンカ、マリア、イヴァン、ヴィッカ、ミルカ)が丘の上に幼い子供を腕に抱いた白い人物の出現を見た、と言いだした。青少年達のうちの4人がそれは聖母マリアの出現であると思い、翌日の同じ時間にその場に行かなければならない、と強く感じた、と主張した。残る2人も加わり、彼らは聖母マリアと祈り、話したとされる。その日から、若者達は全員一緒にあるいは個別に、聖母の出現を受けるようになった、としている。 現在も、支持者達は、聖母の出現は続いていると主張し、メジュゴリエの聖母の教えと称してインターネットなどを通じて伝えている[3]。 なお、現地の司教区は、調査の結果、否定的な見解を打ち出し、その姿勢はジャニッチ司教、後任のラトゥコ・ペリッチ司教共々、継続されている。1982年5月、幻視者と主張するイヴァンは、「聖母の姿に似せた出現を記念した大聖堂が、6月に完成する」と予言したが、外れてしまい、そのたびに予言は引きのばされた。この運動を擁護したヴェゴ神父は、修道女を誘惑し、妊娠させてしまい、それを問題視したヨハネ・パウロ2世直々の命により解任されて還俗、結婚し5人の子供を作り、この運動のグループの形成したメジュゴリエセンターに勤務している。 カトリック教会の対処1987年、ユーゴ司教協議会会長のクハリック枢機卿と現地モスタル教区のジャニッチ司教は、「メジュゴリエに対する超自然的性格に動機付けられた巡礼やその他の表明行為を組織することは、許可しない」とする、禁止声明を発表した[4]。また、1987年同じくジャニッチ司教は、調査の結果、超自然的なものは何もなかった、と発表し、1990年には調査の結果を細かく説明した[5]。1991年にはユーゴスラビア司教団が同じく、出現を否定し、ジャニッチの後を受けて、モスタル教区の司教となったラトゥコ・ペリッチも、1998年と2004年、その真実性をあらゆる角度から否定する、という声明を出し、合わせて信徒にこの運動との関係を持つことを禁止した。また、ローマ教皇庁は、この運動への対応として、教理省秘書タルチジオ・ベルトーネ大司教が、フランス・ランジュのレオン・タヴェデル司教からの質問に答える形で、1996年、現地司教区の声明を引用し、巡礼等は許可されていない、とする発表を行った。
このようにメジュゴリエ運動の支持者達は、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこの出現を支持した、または巡礼した、などと宣伝することがあるが、こうした風説に対して、教理省長官ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、1998年7月22日、「私と教皇の言葉を引用したとされている文章は、想像の産物に過ぎない」とそれらを全否定する発言をしている。 2010年3月教皇庁教理省が、枢機卿の指導のもと、司教、神学者、その他専門家によるメジュゴリエの聖母調査委員会を組織した。4年後、詳細な報告書を教皇に答申した。 2017年5月14日教皇フランシスコは、メジュゴリエの聖母の出現に関する質問に、強い疑念があると述べた[8]。 2018年5月31日メジュゴリエ小教区への特派常駐巡察師として、ワルシャワ=プラガ名誉大司教ホーサー大司教が任命された。 2019年5月12日、教皇フランシスコはメジュゴリエへの巡礼を許可した。これによって、これまで人々が私的に行っていたメジュゴリエへの巡礼を、教区や小教区が企画する公式な巡礼として行えるようになった。 バチカンのアレッサンドロ・ジソッティ暫定広報局長は、この決定については、「これらの巡礼が(メジュゴリエでの)周知の出来事を公認したものとの解釈を避ける注意が必要、と述べ、メジュゴリエの出来事は、まだ教会側からの調査を要するものであり、これらの巡礼が、教理の点から、混乱や曖昧さを生じさせることは避けなければならない。メジュゴリエを訪れる人々の多さ、人々がそこから得た恵みの豊かさを考慮し、教皇はよき実りを促すために、特別な司牧的配慮を意図されたと説明した[9]。 2022年8月1日、教皇フランシスコは「メジュゴリエ・インターナショナル・ユース・フェスティバル2022」に集う若者たちに祝福のメッセージを寄せた[10]。 出現の概要幻視者の特徴メジュゴリエでの「聖母」の出現を受けたと主張し出したのは、ファチマやルルドのケースとは異なり、年端に達しない一名を除くと16歳から18歳までの流行を追う現代風のごく普通の少年少女であり[11]、彼らは「聖母」の出現を受けた後も、その生活様式を殆ど変えることはしなかった。後述するように、むしろ巡礼者の落とす資金をもとに豪奢な生活を送っている。これは他の聖母の出現の幻視者たちと最も異なっている点である[12]。 ミリアナはイタリアの記者から、あなたは出現を受けても男女交際を依然として続けているし、おしゃべりはあまりに好きだが、と問われると、聖母は私達を表層的な偽善の篤志家にしようとは思ってはいない、ときっぱりと答えたという[13]。また警察の要請を受けて、ある女医は彼女達に、聖母の娘にしてはあなた達は流行を追い過ぎている、と尋ねている[14]。
「聖母」の特徴この出現を記録し、メジュゴリエのこの運動を熱心に支援しているロランタン神父によると、第1日目に「聖母」を見た少年少女達は、強烈な恐怖を感じ、恐れがそこにはみなぎり、少女のヴィッカは自分の家に帰るなり、泣きじゃくった[25]。また、繰り返される出現に対して、彼らはそのうち「聖母」のドレスに手を触れるようになるが、その感触は金属のような抵抗を感じ、触ってもびくともしなかった、と発言している[26]。他にも、頭、手、ベール、服など「聖母」は6人の少年少女に触りたいところに自由に触ることを許し、触るたびに「聖母」に痕や汚れがついた。また自分の被っているベールの上を歩いていた(それほど長いベールを被っていた)。最初の出現から4日目には彼らは、人々が聖母のベールの上を踏みつけるので、聖母は消えてしまった、と話している。さらに、「聖母」はヨハネ・パウロ2世の大きな写真にキスをした。 メッセージの特徴
カルト的側面こうした「聖母出現」に関わる騒ぎが起こる前から、管理権問題をめぐって、現地の司教区とフランシスコ会とは係争状態にあった。その為、一部のフランシスコ会士たちの数名は、上述した司教区からの禁止命令に対して、強く反発し、たびたび司教は聖母に背いていると非難、司教を暗に悪魔と呼び、「悪魔が聖母の計画をぶち壊そうとしています。」等攻撃的な姿勢を採った[33]。しかし、司教の対応は上述のように代々変わらず、ばかりかフランシスコ会は現地からの総撤退命令(1999年2月21日)を受け、現地小教区の管轄権は、同会から司教区に移管された。現地のフランシスコ会士の一部は、巡礼者の落とす観光収入を当て込んで、現地に銀行を設立、6名の幻視者を自称する者たちも、その収入によって、高級車を買い、豪華な邸宅をそれぞれ建立してそこに起居した。 脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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