メヒティルト・フォン・デア・プファルツ
![]() メヒティルト・フォン・デア・プファルツ(ドイツ語:Mechthild von der Pfalz, 1419年3月7日 - 1482年8月22日)は、15世紀の文芸の庇護者[1]。 生涯メヒティルトはプファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世の娘で、15歳の時にヴュルテンベルク=ウラッハ伯ルートヴィヒ1世と結婚した。5人の子女が生まれたが、1450年、メヒティルトが31歳の時にルートヴィヒ1世は死去した[2]:143。1452年にオーストリア大公アルブレヒト6世と再婚した[1]。1463年にアルブレヒト6世が死去した後、メヒティルトはロッテンブルク・アム・ネッカーに引退した[3]。この地はメヒティルトが死去するまで文芸の中心地となった[4]。 メヒティルトは愛書家で知られていた[5]。ヤーコプ・ピューテリヒ・フォン・ライヒャーツハウゼン(Jakob Püterich von Reichertshausen)はメヒティルトのために詩を書き、その中でメヒティルトとライヒャーツハウゼンがそれぞれの図書館で収集した全ての本を挙げている[6]。メヒティルトはこの詩の作成のために、ライヒャーツハウゼンに94冊の本のリストを送っているが、それらの本の多くが、ライヒャーツハウゼンがそれまで聞いたことがない本であったという[6]。 1457年、息子エーバーハルト1世とともに、メヒティルトはフライブルク・イム・ブライスガウにフライブルク大学を創設した[4]。1477年にはテュービンゲン大学も息子と共に創設している[4]。 メヒティルトは1482年8月22日に死去し、ギューターシュタインのカルトジオ会修道院に埋葬された[2]:144。 子女ヴュルテンベルク=ウラッハ伯ルートヴィヒ1世との間に以下の5子をもうけた。
脚注
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