ヤンカウの戦い (英語 : Battle of Jankau [ 3] )は三十年戦争 中の1645年 3月5日 、ボヘミア 南部、プラハ から50キロメートル南東のヤンカウ (英語版 ) で生起した戦闘。三十年戦争中で最も血なまぐさい戦闘の1つであるこの戦闘では、スウェーデン 軍が神聖ローマ帝国 軍を撃破した。
背景
マティアス・ガラス (英語版 ) 率いる軍勢はホルシュタイン により南へ撤退していたが、後をレンナート・トルステンソン 率いるスウェーデン軍が追撃している。皇帝は豊かなボヘミアをスウェーデンの侵攻から守るためにハンガリー軍の大半を派遣してボヘミアの守備を増強した[ 4] 。メルヒオール・フォン・ハッツフェルト (英語版 ) 将軍は撤退している軍勢の指揮を引き継ぎ、新しく徴兵された兵士を編入した。そこへ ヨハン・フォン・ゲッツェン (英語版 ) の軍勢が到着、さらにバイエルン選帝侯 がヴェルト将軍とシュポルク大佐率いる増援を派遣したため、皇帝軍は1万6千の軍勢となっていた[ 5] 。
戦闘
両軍とも1万6千人程度であり、かつ両軍とも敵に容赦しなかった戦闘は、スウェーデン軍の完勝に終わった。スウェーデン軍の砲兵の質も速度も上であり、形勢の変化に素早く適応することができた。帝国軍は約半分の7千人しか戦場から離脱できなかった[ 6] 。司令官のハッツフェルトを含む帝国軍の中央部は包囲され、ほとんどが戦死したか捕虜にされた。4千から5千人が捕虜になった。
その後
ヤンカウでの敗北を知ると、皇帝フェルディナント3世 は上プファルツのレーゲンスブルク へ撤退した。彼は臣下にさらなる増援を要求、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世 にシュレージエンとボヘミアの一部を担保にしたほどである。しかし、バイエルンとフランスの間の戦闘が続いたことで、バイエルンからの増援が期待できなくなった[ 7] 。皇帝は続いて教皇に資金援助を求めたが、1644年にウルバヌス8世 が死去、次いで教皇になったインノケンティウス10世 はハプスブルク家を支持しなかったため援助は得られなかった[ 8] 。そのため、皇帝は自分の資源に頼らざるを得なかった。一方、トルステンソン率いるスウェーデン軍がヤンカウで勝利したことでプラハとウィーンへの道が開き、4月にはウィーンから30マイルのところまで進軍[ 9] 、ブルン を包囲した。しかし、スウェーデン軍は1645年内にプラハかウィーンまで着くことができず、12月末には相次ぐ戦闘により疲弊してしまった[ 10] 。
脚注
^ Landmann 1879 , p. 511.
^ 「ヤンコフの戦い」(Battle of Jankov )、「ヤンコヴィッツの戦い」(Battle of Jankowitz )などの別名もある。
^ Acton, Lord. The Cambridge modern history. Vol. 4. New York: The Macmillan Company, 1911. Print. p. 389
^ Anton, Gindely. History of The Thirty Years War Part Two. Vol. 2. New York: KnickerBocker, 1883. Print.
^ Gindely, pp. 314-315
^ Wedgewood, Cicely V. The Thirty Years War, Part 258. New York: New York Review of Books, 2005. Print. Ser. 285
^ Gindely, p. 316
^ Acton, p. 389
^ Setton, Kenneth M. Venice, Austria and the Turks in the Seventeenth Century. Vol. 192. Philadelphia: American Philosophical Society, 1991. Print. p. 78
参考文献
Bernhard von Poten (1885). “Mortaigne de Potelles, Kaspar Kornelius ”. Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 22. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 339– 340.
Carl von Landmann (1879). “Götzen, Johann Graf von ”. Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 9. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 510– 511.
History of The Thirty Years' War Part Two. Vol. 2. New York: KnickerBocker, 1883. Print, pp. 314–315
Acton, Lord. The Cambridge modern history. Vol. 4. New York: The Macmillan Company, 1911. Print.
Setton, Kenneth M. Venice, Austria and the Turks in the Seventeenth Century. Vol. 192. Philadelphia: American Philosophical Society, 1991. Print.
Wedgewood, Cicely V. The Thirty Years' War, Part 258. New York: New York Review of Books, 2005. Print. Ser. 285.
Acton, Lord John; Benians, Ernest Alfred (1911), Ward, Sir Adolphus William, ed., The Cambridge modern history , 4 , The University press, https://books.google.com/books?id=39ZmAAAAMAAJ&pg=PA389&lpg=PA389&dq=battle+of+jankau&source=bl&ots=NbmIuIMVam&sig=hLYXY7vbwXtEEbeTrJHxOGuNdTI&hl=en&ei=vRfFSvzTKoqXlAeN_ZWSAw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=9#v=onepage&q=battle%20of%20jankau&f=false
Gindely, Antonín; Brook, Andrew Ten (translator) (1884), History of the thirty years' war , 2 , G. P. Putnam's, https://books.google.com/books?id=zGLYaUNS2twC&pg=PP19&dq=battle+of+jankau&lr=#v=onepage&q=battle%20of%20jankau&f=false
座標 : 北緯49度39分01秒 東経14度43分46秒 / 北緯49.6503度 東経14.7294度 / 49.6503; 14.7294